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震災関連の生産・製造・流通者etc. からのメッセージ集 2011

2011/03/19 (2011/11/22 更新)

【2011年】

11/22
神奈川県横浜市 中村商店 蔵野浩伸さんより
2011年産 宮崎合鴨稲作生産組合の米のこと
11/20
(株) POD 営業三課店舗事業係 POD‐KIVA 西武筑波店担当 佐藤真平さんより
11月14日(月)~16日(水) 宮城ボランティアレポート
11/11
神奈川県小田原市 稲澤デザイン室 稲澤美穂子さんより
11/11
岩手県陸前高田市 八木澤商店 河野光枝さんより
震災発生から8ヶ月
09/20
(株) POD 営業三課店舗事業係 POD‐KIVA 西武筑波店担当 佐藤真平さんより
9月7日(水)~8日(木) 福島レポート
09/16
岩手県陸前高田市 八木澤商店 河野光枝さんより
09/09
東京都国立市 ポラン広場東京参加店・あひるの家 狩野強さんより
08/30
岩手県陸前高田市 産直グループ代表 上野 孝雄さんより
08/30
(株) POD 営業三課店舗事業係 POD‐KIVA 西武筑波店担当 佐藤真平さんより
8月14日(日)~18日(木) 福島レポート [09/02追記]
08/09
福島県いわき市 三陸水産 雨澤進さんより
08/05
鹿児島県大島郡徳之島町 奥田隆一さんより
07/19
岩手県陸前高田市 産直グループ代表 上野孝雄さんより
07/19
神奈川県横浜市 中村商店 蔵野浩伸さんより
16日に熱塩加納に行って田んぼだけ見て来ました
そして、いわきでカン坊と原発現場のことなどを…
06/29
新潟県中魚沼郡津南町 関根秀夫さんより
06/26
埼玉県秩父市 ラパンノワールくろうさぎ 山田ナオミさんより
ラパンノワールくろうさぎはこう考えます
06/17
東京都杉並区 ポラン広場東京参加店・結 木浪玉代さんより
陸前高田市の八木澤商店の河野さんご家族にお会いしてきました
06/11
福島県喜多方市 緑と太陽の会会長 原源一さんより
06/10
山口県熊毛郡上関町 上関原発を建てさせない祝島島民の会より
続報:周南市議会に続き、下松市議会が上関原発計画の凍結を求める意見書を可決
06/05
神奈川県横浜市 中村商店 蔵野浩伸さんより
05/31
宮城県気仙沼市 畠山重篤さんより
05/30
(株) POD 営業三課店舗事業係 POD‐KIVA 西武筑波店担当 佐藤真平さんより
5月25日(水)~27日(金) 福島市と南相馬市へ行ってきました
05/27
山口県熊毛郡上関町 上関原発を建てさせない祝島島民の会より
山口県・周南市議会が上関原発建設中止を求める意見書案を可決
05/25
高知県高岡郡中土佐町 西村善徳さんより
生姜畑からの報告
05/16
茨城県行方市 POD要ファーム代表 磯山茂男さんより
05/02
栃木県大田原市 天鷹酒造代表 尾崎宗範さんより
04/29
茨城県行方市 ハーブスマンs 福山久之さんより
04/19
福島県喜多方市 緑と太陽の会会長 原源一さんより
04/18
茨城県行方市 POD要ファーム代表 磯山茂男さんより
東日本大震災下のPOD要ファーム
04/16
福島県喜多方市 大和川酒造 佐藤彌右衛門さんより
04/14
神奈川県横浜市 中村商店 蔵野浩伸さんより
4月10日~13日、南相馬市鹿島に行って来ました
04/11
福島県いわき市 三陸水産 雨澤進さんより
04/01
神奈川県川崎市 オフィス和蔵 片山 雄介さんより
フクシマ原発事故と今後を思う
03/28
青森県田子町 日澤一雄さんより
03/22
茨城県鉾田市 村上きのこ園さんより
03/19
神奈川県横浜市 中村商店 蔵野浩伸さんより

2011年産 宮崎合鴨稲作生産組合の米のこと

2011年11月22日
神奈川県横浜市 中村商店 蔵野浩伸

皆様
お世話になります。

悔しい、申し訳ない、情けない……です。
中村商店・宮崎合鴨稲作生産組合の米の放射性物質検査分析結果のことです。
残念ですが、今期の取り扱いを中止いたします。混乱を招いてしまい誠に申し訳ありません。

どうにもやるせなく、無力感で一杯です。
2011年 宮城県加美町産奥羽米の玄米、放射性セシウム(134+137) 27Bq/kg
27と言う数字は国の言う500から見ればほんのわずか。
しかし、食される方から見れば、決して『食べたい』とは思わない数字。
それは毎日食するものだから。

お米の大事さをこれほど痛感したのは初めてです。
(独) 農業環境技術研究所 NIAES (つくば市) (※) の過去のデータを見ても、1963年の20Bq/kgだけが突出して高い数値。
東電第一原発から150km程の彼の地がこれほど汚染されてしまっている現実。
データが確かなものならば、過去に日本人は汚染度が20Bq/kg以上のお米を食べ続けたことは無い。
故に、悔しいけれども販売を断念するしかなかった。

生産者がこの春、どんな思いで苗を作り田植えをしたのか?
秋には、祈るような気持ちで収穫した事だろう。

8月と収穫後の2回のグループ独自の放射能検査で「不検出」だったにも拘らず、こういう結果になってしまった。
地形や周囲の環境によって、並んだ田んぼの川上と川下では大きな違いが出て来るのかもしれない。

これからの農業、特に有機農業をどうすれば存続できるのか?
どうすれば再び消費者に目を向けてもらえるお米を作れるのか?

生産者、我々流通に関わるもの、消費者、皆分からない事だらけの状況下で苦しんでいる。

誰が責めを負うべきか?
云わずもながである。

何にしても、生産者には「申し訳無い」の一言だ。

15年ほど前だろうか、宮崎合鴨稲作生産組合のリーダーだった鎌田竹司さんが、難病のALS (筋萎縮性側索硬化症) の病状が悪化する中、唯一動く唇でパソコンを操作し「これからの日本の農業がどうなるのか見てみてみたい」とFAXをくれた事を思い出す。

竹司さん!こんなんなっちまったよ!!
農業が復活できるよう天国から応援してくれ~~。

※ 独立行政法人 農業環境技術研究所 NIAES (つくば市)
http://www.niaes.affrc.go.jp/
同法人「原子力発電所事故等による土壌・農作物の放射能汚染に関する情報ポータル」http://www.niaes.affrc.go.jp/techdoc/radio_portal.html

資料:放射性物質検査分析結果
試料名 奥羽米 白米
(2011年産)
奥羽米 胚芽米
(2011年産)
奥羽米 玄米
(2011年産)
生産地 宮城県加美町 宮城県加美町 宮城県加美町
生産者または商品名 宮崎合鴨稲作生産組合
(中村商店)
宮崎合鴨稲作生産組合
(中村商店)
宮崎合鴨稲作生産組合
(中村商店)
採取日
(製造日)
11月 11月 11月
検査日 11月21日 11月21日 11月17日
検査結果
Bq/1kg
12 18 27
検査法※
検査機関名 同位体研究所 同位体研究所 同位体研究所
備考 放射性ヨウ素I-131不検出(検出限界1Bq/kg) 放射性ヨウ素I-131不検出(検出限界1Bq/kg) 放射性ヨウ素I-131不検出(検出限界1Bq/kg)
  放射性セシウムCs-134:5 Bq/kg、放射性セシウムCs-137:7 Bq/kg 放射性セシウムCs-134:8 Bq/kg、放射性セシウムCs-137:10 Bq/kg 放射性セシウムCs-134:13 Bq/kg、放射性セシウムCs-137:14 Bq/kg
※検査法B:ゲルマニウム半導体検出器 γ線スペクトロメーターによる精密核種検査

11月14日(月)~16日(水) 宮城ボランティアレポート

2011年11月20日
(株) POD 営業三課店舗事業係 POD‐KIVA 西武筑波店担当 佐藤真平

2日間のみでしたが、宮城でボランティアに参加してきました。1日目は作業、2日目は現地を色々と回ってきました。現地の声や様子が少しでも伝わればと思います。

14日
23:30 品川駅出発。ボランティア団体理事長の運転で気仙沼へ。参加者20名で募集をかけていたそうですが、今回は3人のみ (私の他には、30代女性1名、60代女性1名)

15日
08:30 気仙沼の社会福祉協議会(ボランティアセンター) に着き、受付を済ませる。今回のボランティア参加者は全部で約20人。3グループに分かれた。

09:00 作業開始。津波で被災した家の瓦礫撤去。
作業した場所は海から2kmの民家。津波の時の波が引かず家は浮島のようになっていたとのこと。3階建ての1、2階は浸水、3階は居住可能だが現在は物置として使用している。家に入るには瓦礫で作った橋を渡って入った。10人ほどでの作業。参加者は九州や名古屋など西日本からが多い。長い方で3ヶ月を気仙沼で作業されている方もいた。
ひたすら瓦礫撤去。ほこりと塵がひどく、マスクを三重にしても苦しい。それについての話をボランティアリーダーの方から聞く。「この塵は津波で海底深くから来たもの。非常に細かく、作業した人の中には肺を壊す人が出始めている」
瓦礫や家の荷物を片付けていると写真や手紙などが出てくる。念のためご主人に確認をしながら作業を進めた。
昼、ご主人より話を伺った。「この一帯はずっと波が引かずに道がなかった。自衛隊に砂利で仮の道を作ってもらい、やっと片付けに入ることができた。電気は今もまだ通っていない (この日、電柱を立てる工事が始まった)。津波当日は、波に追われながら車で逃げた。直後は火災も多かったのが気仙沼の震災の特徴。家に戻ると、近くの鮮魚加工場から流れてきた秋刀魚が家の中に散乱。9月頃までは魚、ごみ、その他が入り混じった異臭がすごかった。EM(微生物)菌を散布したことが最も効果があったようだ。この地域の再建プランは作られたが、建設予定の堤防の高さなどを考えると現実的ではないという声が住民からは挙がっている。時間をかけて現実的なプランへ変わっていくのではないか。」
ご主人がボランティアに「戻り鰹」の刺身を振舞ってくれた。力をつけ、作業に戻った。

15:00 作業終了。車で気仙沼市内の仮設住宅へ。
住民より話を聞く。男性(60代)「やっと、断熱材をつける工事が始まった。要求を続けてきてやっとだ。だが、断熱材がはみ出たり、他にも手直ししてもらいたいところがある。明日、市役所の担当へ伝える。」
男性と若い女性(学生服を着ていたので高校生か?) が仲良く話をしている。祖父と孫かと思いきや仮設の住民同士という。後から聞いたが、女の子は母親と仮設住宅で二人暮らしで、父親は津波に流されたという。近隣の住民は、仮設住宅の住民を地域の一員として迎えるため、「仮設」という言葉を使わずに接しているという。言葉遣いひとつが、地域を築き、人間関係を築いていくための工夫のひとつと感じた。

19:00 宿泊所へ移動、夕食。
理事長の友人(30代男性。気仙沼在住) が合流。3~4時間、様々な話を伺う。雇用不安があること、地理的な条件など様々なことが影響して企業立地がなかなか進まないこと、地域で暗黙裡にある利権が復興工程を遅くしていること、地域で生じた住民同士の生活環境の差とそれに伴う住民感情の発生などなど。
また、理事長からは、ボランティア団体の地域との関わり方のスタンス、ボランティア団体を設立した経緯、ボランティア団体が現地から減ってきていること(3、4月と比較して8割は減ったとのこと。理由は殆どが財政難) 市内、県内、被災各県で様々に異なる避難地域の復興状況の差、メディアの震災の取り上げ方、これから待ち受けていることなどなど。

23:00 就寝

16日 
08:00 昨日とは異なる気仙沼の仮設住宅へ移動。
住民の女性(70代女性) から話を聞いた。「仮設住宅ごとに住環境の優劣がある。感情的になってはいけないのは分かるが、どうしても考えてしまう。先のことも不安。次の段階、仮設住宅以降の話が全く無い。これから寒くなり、家にこもりがちになる。どうしても考えてしまう。この仮設でも震災以降、アルコール中毒になって入院している人がいる。ボケてきた人もでている。今後、ますます孤独な老人が増えそうで心配している。田舎だから地縁があると思っているかもしれないが、気仙沼は外から来た住民が多い土地で、私と主人もそう。ずっと地元で親戚など繋がりがある人はいい。現に、土地を手配して家を再建している人はこの土地にずっと住んでいる人。そうでない人は、色々なところで不利。また、外から来た人は元々地域の人との繋がりが薄い。これまでも、地域の催しものなどにも積極的に取り組まない人が多かった。自分さえよければいい、という人が多い傾向はある。自分が失ったものを考えたり、自分達への自治体の対応を考えると投げやりな気持ちになることがある。また、いつでも気仙沼に来て欲しい。ボランティアさんにはよくしてもらっている。皆さんの気持ちに応えようという気持ちが起きる。それが心の救いになっている。」

12:00 南三陸町へ。
理事長より「ここらへんが目抜き通りだったそう」「ここの病院の屋上から、100名ほどの患者さんがヘリコプターで救援された」など、説明を受ける。
途中、理事長がいつも利用するガソリンスタンドへ。津波に流されたが、最近再建したばかりだという。50代のご主人と奥さんが忙しそうに働いている。世間話をしながら、話を聞かせてもらう。「再建したはいいが人手が足りない。ハローワークへ募集をかけているが、なかなか集まらない。父ちゃんと二人でがんばるしかない。」
途中、冗談を交えながらこちらへお茶を出したり色々と気を遣ってくれる。住民と思しき人と話をしているが、「あそこの工事はどう?どのくらいひどかったんだっけ?」など震災の話題。声も大きく非常にパワフルな方という印象だが、理事長からあのご夫妻はお子さんとご両親を津波で亡くしていることを聞く。理事長は言う。「今は、仕事で忙しいくらいでちょうどいいかもしれない。これからもこっちに来るたびに顔を出そうと思う。」

14:00 東松島へ。
ここでは車から降りなかった。理事長が数百メートル先を指差し、「あの一帯は全てゴーストタウン。」 住宅地に近づいて家の中を見ると、1階は波にさらわれた直後の状況そのまま。冷蔵庫から食材が飛び出していたり、家財道具などが残っていたり。理事長「津波の被害といっても、ひとくくりではないことを見て欲しかった。その土地その土地で被害は様々、復興の進行具合も様々」

15:00 昼食をとり亘理町へ。

17:00 亘理町のいちご農家着。ここはこの団体が8月から支援を行っているという。足場固め、ビニールハウス作り、植え付け、と手伝ってきたそうだ。いちご農家の男性が言う。「クリスマスまでに間に合わせたかった。この団体の支援がなければとてもできなかった。」
理事長と男性のやりとりを聞いていると、支援に本当に感謝していることが伝わってくる。そして、理事長も一緒に創り上げた喜びを農家の男性と分かち合っている。理事長がまた訪れることを約束し、その場を発った。

感想 様々な光景を見て、様々な話を聞いた。正直なところ、震災から8ヶ月も経ったのだから幾らかは進展しているのだろう、と思い込んでいた。そして、明るい話だってあるのではと思っていた。どちらも真逆だった。これから東北は寒い冬に入る。仮設住宅の女性が「寒いと外に出なくなり、孤独になりがち」と言っていた。自分も福島出身、少しは東北の冬の厳しさは知っている。「孤独に耐える」ということの厳しさを想像すると言葉がでない。今回のレポートが、少しでも被災地の様子を知る際の参考になればと思います。

【参考】今回参加したボランティア団体は以下の通りです
一般社団法人 東日本大震災生活支援協会
http://life-support-association.org/

2011年11月11日
神奈川県小田原市 稲澤デザイン室 稲澤美穂子

この度「稲澤美穂子日本画展 飛流」を開催するにあたり、たくさんの協力をありがとうございました。
初個展にありながら200名近い方にお越しいただき、未熟ながら実りの多い1週間でした。

個展を決めたのは2年前でした。
そして、今回の目標は300号を描くという事でした。
表現とは何か今更ながらきちっと向き合ってみようと思ったのが最初でした。

暗中模索しながら、大きな真っ白なパネルに墨を入れたのが今年の1月でした。
毎日画面を見ながら、何が描きたいのだろうと漠然と思っていました。
そんな時に地震がありました。
まわりのすべてが止まって、テレビの画像と自分の描きかけの絵を見る毎日でした。
その絵を見て、私はへとへとになってしまいました。
自分の絵が自分で見たくないと思った時、
目の前の絵に胡粉という白い絵の具をぶちまけて、
ほとんどの画面を消してしました。
気持ちの良い絵が描きたい
ただそれだけの気持ちになりました。
それ以前の絵が消える訳ではないけれど
そこからの出発にしようと思いました。

被災地へ行ってみようという気持ちがわいてきました。
なぜ、そう思ったのか全く理解できない自分と
そんな気持ちで行くようなところではないという気持ちと
でも、なぜか強く行こうと思いました。

そんな時にポラン広場東京事務局から
何か感じる事があるのなら、行った方が良いと誘っていただいて
三陸を旅させていただきました。

画像で見る被災地と現実の被災地とは全く違っていて
何も出来ない自分を知るだけでした。

私は旅の間ずっと希望を探していました。
小さな小さな出来事が希望につながる事に気づきました。
瓦礫の隙間から咲いた花
風車
ひまわり
黄色い旗
元気な落書き

人は絶望の淵で希望を探すのだと思いました。
小さな花が大きな力になると

石巻の堤防に描いてあった子ども達の絵が
瓦礫の中で唯一、綺麗な色で
ひときわ目立つその壁に元気をもらいました。

作り手として
何が出来るのか
私はすがすがしい絵を描く
力強いパワフルな絵を描く

心がほんのちょっとでも前を向ける絵を描きたい
そんな気持ちで帰ってきました。

帰りの車中で「2012・ポラン広場東京カレンダー」の構想を
みんなで話しながら帰りました。

作り手としてカレンダーに出来る事
Do not forget tohoku
この言葉を
気持ちよく、さりげなく一年間伝えたい。
来年も その翌年も

それから個展まで
描いては消しの繰り返し

未熟な私には,終わりの無いテーマですが
おのおのが自分の出来る事をしっかり確実にやる
そんな当たり前の事を
再認識した旅でした。

今回の個展で
沢山の方に元気をもらったと言っていただきました。
ちょっと落ち込んでいた方からも
「絵は人に力を与えるのだと教えられて、自分の仕事に自信が持てた」と言っていただきました。
でも、病弱な方からは
「ちょっときつい」というお言葉もいただきました。

でも、そろそろ枯れても良い年齢のおばさん (これ、わたしのこと) が
目一杯力強い絵を描く!
それだけで沢山の人がほんの一瞬、元気になってくれたように思います。

これが私の絵を描く意味だったのだと
沢山の事が教えてくれました。

だから、これからも
毎年、元気に絵を描く!
そして、
何かを間違える事なく過ごす

足下をしっかりすると言う事
自分の足下が何かを知る事
それが今回の旅だったように思います。

「わくわくするでしょう~
だって今まで出来たことが出来なくなるのよ」
こんな強がりも良いでしょう
90歳をすぎる作家さんの言葉です。

何に対しても気持ちを切り替える力
そんな心が私たちの"今"を変えてくれるように思います。

2011.11.11 震災発生から8ヶ月
八木澤商店 河野光枝 ←→ ポラン広場東京事務局 神足義博

2011年10月29日
岩手県陸前高田市 八木澤商店 河野光枝

ポラン広場東京事務局 神足義博様

早いもので、あれから8ヶ月にならんとしています。
あっと言う間に過ぎてしまいました。
お陰様で、八木澤商店のつゆたれ工場 (一関市大東町) は、11月9日に起工式をする運びになりました。(※事務局補足 その後、……)
味噌醤油工場は、陸前高田に戻って落ち着いてから建設することになります。
木桶基金のこと、感謝しております。

お知らせ頂いた桜の植樹(※) は、友人からのメールで知っていました。
佐藤一男さんは、しっかりした青年で、彼の牡蠣はとてもおいしかったのですが、今年は我慢しなくてはなりません。
彼のお父さんは、広田湾の埋め立て開発(※)を熱心に反対されたようです。

一昨日八木澤商店の有った地域の復興計画の説明会がありました。
住居を建てられるのは、5年後くらいのようです。
そうすると、私は70歳か…… ケ・セラ・セラ……

今小さな積み木の家を、九州工業大学・明治大学・中央大学の方々に作って頂いています。
タイムカプセル式に400本以上の大きな積み木に一人ひとりがメッセージを書いて、積み上げていくことをしています。

地域は瓦礫が随分片付きました。


[事務局補足]
※その後、建設資材や工賃の値上がりで起工は中止となり、設計変更からの出直しとなりました

※[10月28日 朝日新聞より] 津波の記憶、桜に託す 到達地点に1万本計画 陸前高田
東日本大震災で甚大な被害を受けた岩手県陸前高田市で、津波が到達した最高地点を結びながら1万本以上の桜の木を植えていく計画が動き始めた。毎春、淡いピンクが連なる「花の警戒ライン」で震災の教訓を風化させずに後世に伝えたい。地元被災者らの思いだ。
漁師佐藤一男さん(45)ら被災者やボランティアの10人が実行委員会を作った。過去の津波の到達点を知らせる石碑が各所にあったのに、忘れられて犠牲を繰り返したことの反省が出発点だった。毎年花を見て記憶を呼び起こせるよう、桜を選んだ。佐藤さんは「津波を思い出す悲しさがあるけど、次の津波が来た時に桜より上に避難して命を守って欲しい」と願う。
津波が到達した線に沿って10メートル間隔で苗木を植える計画だ。市内で約173キロ。すべて植えれば約17,300本の桜が連なる。

※広田湾の埋め立て開発:八木澤商店先々代 河野通義氏は、数年前にお亡くなりになりましたが、「広田湾埋め立て開発に反対する会」会長で反対運動のリーダーのひとりでした
http://www.yagisawa-s.co.jp/kokoro/kouno.html

2011年11月04日
事務局 神足義博

八木澤商店 河野光枝様

来週には、震災発生から8ヶ月になります

思えば長い時間、私たちは「核」と付き合っています
声に出すひと、声に出さないひとも 馬鹿なことにつき合わされてきました
エネルギーだ、二酸化炭素排出による地球温暖化対策には原発を、と騙されてきたようです
いま、何故このような状況に至ったのか 憤怒 (自らへの怒りも含みます)
少し前から、仕事の合間に核開発のこれまでをメモしてみました
知っていること・知らないことを、もう一度整理してみたかったからです
そして、サイトに記載しました 
http://www.polano.org/13_f1/01_hosoku2.html
昨日、最後の
2011年3月11日
14:46 東北地方太平洋沖地震 (断層運動規模 Mw9.0) 「東日本大震災」
福島第1原発事故 レベル7 「フクシマ原発震災」
と書き終えUPし、それをパソコン画面で読み、涙しました 嗚呼

亡くなった作家大庭みな子は
ヒロシマのことを述べたなかで「たれか助けてください わたしを」と記しています、彼女の創作の原点だと私は思っています

私も低く叫びたい「タレカ タスケテクダサイ」
はい、ケ・セラ・セラ…… ですね

合掌

2011年11月10日
八木澤商店 河野光枝

ポラン広場東京事務局 神足義博様

寒くなってきました。
今住んでいる大東町は、陸前高田より、冬の寒さが厳しいようですので、クマと同じに冬籠りの準備でうろうろしています。

岩手では、23日に一関で、飯田哲也氏の講演会や、遠野で、鎌仲監督や飯田氏のパネルディスカッションが予定されているので参加しようと思っています。

気仙町では、以前にお伝えした小さな積み木の家が今月中に出来上がる予定です。
ミニ集会所です、何も無くなった気仙町に今一番必要な場所かなー……

又、真っ暗な三陸の海を明るく照らしたいというお話が有って、自然エネルギーでどのくらいイルミネーションができるのかわかりませんが、3.11の夜、真っ暗な山道を逃げた子供達の心にともし火を灯して、海に向かって鎮魂と慰霊の明かりになればと思って参加しています。

この地域での放射能の数値にあまり変化はありません。
こころなしか少し少なくなっているような気がします。
この数値が将来子供達にどのような影響を与えるかはわかりませんが、どこに逃げても、逃がしても安全と思われる場所は、今の日本にはないですよね。
宗谷岬かな?    ケ・セラ・セラ

追伸 ホームページの核の歴史 すごいですね。よくまとめられましたねー
私は、何も知らず岸がきらいだったり、中曽根が最も嫌な首相として思い出しますけれど、(随分昔のことですが、地元陸前高田に伝わる「けんか七夕太鼓」が渡米公演した後に、中曽根首相主催の催しに招待されたことがありました。私は行く気になれず、保存会を代表して社長時代の夫だけが行ったことが思い出されます)
今回改めて このせいだったのか?……
でした。

9月7日(水)~8日(木) 福島レポート

2011年09月20日
(株) POD 営業三課店舗事業係 POD‐KIVA 西武筑波店担当 佐藤真平

9/7~8に福島市を再訪問しました。少しでも現地の様子を知る為の参考になればと思います。

昔から通っている衣料品店を訪ねました。店の方から、現地の人々の様子とこれまでの市内での様々な取り組みについてお話を伺いました。印象に残った点のみ紹介します。

店のオーナーからは
「3月以降の流れのなかで痛感したが、福島市の人々はおとなし過ぎる。7月末にあった市議会議員選挙も盛り上がらなかった。これだけの事態が起こっているのに、変化がなかなか起きないことが本当に不思議。今の福島に必要なのは、人々が参加しやすくかつ楽しめるようなイベントでは?その点、私達が関わった「FOR 座 REST trip」は若者向けの音楽イベントではあるが、音楽のライブと震災について考える時間をそれぞれ設けたバランスのよいイベントだったと思う。」

参考:FOR 座 REST trip 
2006年から福島市民家園を会場として、市内では異例の5千人規模を集める非営利の文化イベント。

店のスタッフからは
「この店は、小さいお子さんを持った若い男女がメインの客層。土日になると、お父さんは県外へ避難させている母子の下へ向かうなど、生活パターンの変化がある。また、避難先では様々な援助があるが、お父さんが家族の元へ向かう交通費は自費になっている。もちろん、そのことの店への影響もある。家庭や経済の事情が様々に変化しているのは、お店に立っているとよくわかる。市民放射能測定所がパセオ通り(駅前のメインストリート)に設置されるときいた。放射能についての関心がなかなか高まらない中、再度新たな動きが起きるきっかけとなることを期待している。」

その後、取材で福島入りしている友人の記者に同行しました。期間限定で取材の応援に入っているとのことです。彼とは、保育園や大波地区で有機農業に取り組む農家さん宅を訪問しました。
(大波地区:特定避難勧奨区域の候補だった地区。9月初旬、市の住民説明会があり除染で対応していくことが説明された)
大波地区は、照明も少ない林が多い地域です。ご主人がいうには
「虫(バッタ)が奇妙な形で大量に死んでいたり、カラスがびわの実を全く食べなくなったり(昨年までは食べていた)、動物や虫の様子がこのところおかしい。知り合いの農家も同じことを口にしている。生態系の変化も十分に考えられるが、行政は動いていないのでは?」
外に出た際は、「線量が高いから、早く車にのって~」という半分ジョークのようなやりとり(本当に高いのですが)

また、市内の保育園(渡利地区、さくら保育園)も訪問しました。「ペットボトルによる、空間線量の低減策」を実施しているとのことで現場をみせてもらいました。以前、福島県郡山市の橘小のHPで紹介されていた試みです。

参考:橘小学校内放射線値報告  (238KB)

父兄が、送り迎えする際ご家庭からペットボトルを持ってきてくださり、今では1400本以上も集まったとのこと。園長先生より話をききました。
「現地にはいってくれた記者が私達を取材し、記事を書いてくれた。だが、私達の心情を決して言い当ててはいない。私達は汚染された土地で、子どもの目線にたって保育を行っている。土に触れられないこと、外で遊べないこと、プールに入れないことがどれだけ子どもにとってストレスか。論理的なことばのみでは、『子どもが隣にいる質感』は伝わらない」
「当事者意識の欠如」とまとめてしまうことにはためらいますが、現地で生活する人々に寄り添う姿勢の必要性を痛感しました。

コメントとして
その他、様々な現地の人々と話をしましたが、それぞれの方から疲労感を感じます。そして、それが表現しにくいものであり、また繊細な内容も含まれており受け手にとってはうまく受け取れないこともあるのでは?と思いました。放射能汚染の様々な影響が、ゆっくりと進んでいることだけは事実です。

以上、簡単ではありますが、少しでも現地の様子が伝わればと思います。またこの場を借りて報告させていただけたらと思います。

2011年09月16日
岩手県陸前高田市 八木澤商店 河野光枝

みなさま いつも応援とご支援をありがとうございます。 真っ白なキャンバスにどのような陸前高田の町を描いていくか、社員一同がっばっべし 若い人達よ 頑張れがんばれ!! と、私は後ろで旗を振っています。

今日は至急のお知らせ
「三陸の海を放射能から守る岩手の会」からの「郡山疎開裁判」のご支援のお願いです。

「郡山疎開裁判」のご支援をお願いします

今回の裁判は全面的に世界中に拡散OK (弁護士の了解を貰いました) となりました。

このような裁判は世界で初めてのことだそうですし、原告だけの問題ではなく、福島県を中心とするあらゆる被ばく環境に住む事を強いられている市民の問題です。いま、裁判官はこんなとてつもない判決を本当に決定して良いのだろうかと揺れ動いていると思います。世論が味方に付けば裁判官もより公正な判決を下せると思います。

今までの裁判経緯は以下に時系列で示しています。
ふくしま集団疎開裁判の検討 

簡単に説明しますと、
この裁判で求めている事は、少なくとも疎開を希望する子どもたちは年間1ミリシーベルト以下の環境で教育を受けさせて欲しい。

それに対する郡山市側の主張は、
1.学校生活では今後1年間で1ミリシーベルト以下であるから、避難や疎開の必要性はない。
2.転校や避難はしたければしたらいい。郡山市はそれを妨げない。
3.今後も除染を行っていくので、さらに被ばく環境は改善されるであろう。

それに対し子どもたち側は、以下を訴えています。
1.3月15日からの放射線量の多い期間と内部被ばくを考慮すれば、既に1ミリシーベルトを超えている。これ以上の被ばくは子どもたちにさせるべきではない。
2.チェルノブイリ事故時に郡山市と同程度に汚染されたウクライナでは、事故から数年で、健康な人の割合が8割から2割に激減している。そして病人の数は、放射線管理区域 (セシウム18.5~3.7万Bq/m2) に住み続けている人が56.3%、半径30km(それ以上の汚染区域)から避難した人が33.6%であった。(ウクライナ政府公式レポート
3.チェルノブイリ事故時の移住基準に照らし合わせると郡山市のほとんどが「補償付き移住の権利区域」となり、旧ソ連よりも人権を無視した現状であること。

あと3週間でできることは「署名」と「陳述書」と「拡散」です。
陳述書にはなんでも裁判官に訴える事を書いていただければよいのですが、郡山市や中通りの保護者からは、郡山市側が言う自主的な避難がなぜできないのかを訴えていただけると、裁判官も避難や疎開の判決が必要なんだなと思ってもらえると思います。

  1. 集団疎開裁判の署名があることを友達に教える
    ふくしま集団疎開オンライン署名 (ネット署名)
    ふくしま集団疎開裁判公式サイト (自筆で署名 サイトの左上、署名用紙 PDF)
  2. 陳述書を提出する
    表題は「陳述書」としていただき、裁判所に是非伝えたいこと等を思いの丈を綴っていただいた上で、
    (1)書いた日付
    (2)住所・氏名
    (3)捺印 (認め印で結構です)

これで「陳述書」としては完成となります。文書は手書きでもかまいませんし、パソコンで作成してもかまいません。ただ、署名は手書きで書いていただければと思います。便せんでも白紙に書いていただいても用紙は問いません。
形式張っていて申し訳ありませんが、裁判所に提出するものですのでご理解いただければと思います。
その上で、作成した陳述書は安藤法律事務所 (弁護士安藤雅樹) 宛ご送付ください。

安藤法律事務所
〒390-0861
長野県松本市蟻ヶ崎1-3-7

FAX:0263ー39ー0700
E-mail:m-ando@po.mcci.or.jp

期限は、署名と同様に10月7日までとします。
特に、福島県や近県にお住まいの方、是非ともお願いできればと思います。勿論それ以外の場所にお住まいの方も大歓迎です。

皆さんの熱い思いを裁判所に伝えることが、最終盤を迎えた裁判を動かす力になりますので、どうぞよろしくお願い致します。

陳述書は東京在住の方からも頂き、裁判所へ提出しました。
署名と合わせ、世界中から募集します。

補足 [ポラン広場東京事務局]2007年5月より
八木澤商店 河野光枝さんの紹介で「三陸の海を放射能から守る岩手の会」の六ヶ所核燃料再処理工場の本稼動に反対する署名活動等に取り組みました。多くの方々にご賛同ご協力をいただき、誠にありがとうございました。現在も六ヶ所再処理工場の本稼動は押し止められています。ネットワーキング情報ページの「六ヶ所核燃料再処理工場の本稼動に反対します!」に詳しい経過報告を掲載しています。ご参照ください

2011年09月09日
東京都国立市 ポラン広場東京参加店・あひるの家 狩野強

ポラン広場東京参加店のあひるの家が、東京・国立市で取り組くでいる「国立ようこそプロジェクト」の活動を紹介します (このプロジェクトの呼びかけはあひるの家で行いました)。
東日本大震災・原発震災により避難してこられた方々に、お店の店頭や個人のお宅にポスターを貼ること、鞄や小物にバッジをつけることで、「心からの歓迎」を表すことが、このプロジェクトの最初の取組みです。
以下は、その趣旨と呼びかけ文です。

みなさんからお預りした支援金でこんな元気なポスター、バッジができました。
東北3県から国立に避難してこられた方々が200名程(市で把握しているのは100名程)いらっしゃいます。
そんな方々が街に気楽にでかけてきて、気楽に立ち寄ったり声をかけていただけるよう、こんなポスターを街の店頭に貼ったり、車に貼ったり、胸にバッジをつけたりして、お迎えしている気持ちをあらわしたいと思いました。
例え仮の住まいであっても、そこが居心地に良い街であったと言っていただけるよう心掛けたいと思っています。
ポスターは2種類あって、一つは吹き出しに各店のメッセージを記してもらおうと思っています。
バッジは腕や胸やバッグにつけてもらって、「どっかいい歯医者ないですか?」
などと気楽に声を掛けてもらえたらと思います。
ポスターは無料で配布します。バッジは次の支援活動をしていく運営費を含んで、1個100円です。
ポスターの原画は、あひるの家スタッフの里夏ちゃんが描き、それを基に若手デザイナーの坂東さんがリライトしました。お迎えしている元気な女の子は「梅子ちゃん」といいます。
各商店への貼り出し協力は、『しゅんかしゅんか』の菱沼さんをはじめとした若手スタッフや、有機交流電燈倶楽部のメンバーなどが主力になって活動していきます。
国立市の産業復興課の協力も期待できます。
わたしのお店でも貼ってみたい、バッジがほしいという方、お申し出ください。
避難されている方々をお迎えする気持ちをアピールするとともに、私達がもう一歩、震災・原発事故に関心を深めていけたらと思います。
次のステップは、避難して来ている方々とコミットして、「今必要なこと」をサポートできる活動をつくっていけたらと思います。バッジ1個100円の内半分弱を、次のサポート活動に使っていきたいと思っています。

国立へようこそプロジェクト

2011年08月30日
岩手県陸前高田市 産直グループ代表 上野 孝雄

前略
災害見舞いやたくさんの支援をいただき本当に心温まる思いでした。皆さんの厚い厚い思いが有難く胸にひしひしと感じました。
津波のあと海を見るのが嫌でした。
自分たちがこれまで培ってきたものを全部うばい去ってしまった海が怖かったし恐ろしかった。自然がやったことだから誰も恨むことも出来ないし。
でも今は海の青さを見るときれいだと感じます。そして私達の仕事は海がなければやっていけない…
海と仲良くしなければ自分達はやっていくすべがないと思うようになり、元の生活に一日も早く近づけるように努力して皆さんに恩返しをしたいと頑張っております。
本当に本当にありがとうございました。
会社もようやく予定地を見つけ着工の準備をしております。
今日はほんの気持ちですがサンマを送ります。
御笑納下さい。
まずは お礼まで

8月14日(日)~18日(木) 福島レポート

2011年08月30日
(株) POD 営業三課店舗事業係 POD‐KIVA 西武筑波店担当 佐藤真平

8/14~18まで福島に行っていました。今回帰省した目的は、音楽イベント「プロジェクトフクシマ」へのボランティア参加と映画祭「イメージフクシマ」を見るためです。主観を交えてのレポートですが、少しでも皆さんの参考になればと思います。

音楽イベント「プロジェクトフクシマ」
「プロジェクトフクシマ」は、福島市出身の音楽家である大友良英さん(映画音楽、ジャズなど)と遠藤ミチロウさん(パンクなど)、詩人の和合亮一さんが発起人となって作られました。音楽フェスの企画の他、USTREAMを使った動画配信プログラムの作成や放射線衛生博士の木村真三さんを招いての「市民放射能測定講座」、和合さんによる詩のワークショップなど様々な企画を進めています。
大友さんの2011年4月28日 東京芸術大学での特別講演が企画趣旨に詳しい。
文化の役目について:震災と福島の人災を受けて

フェス前日の14日は説明会で参加者22名。運営側は60名の応募を見込んでいたとのことで少し寂しい参加数でしたが、「フリーフェス(無料)であり、観客動員数が全く予想できない。臨機応変な対応を。それと健康管理。まずは自分が熱中症にならないように。」と説明を受けました。資金難もあり設営などは遅れぎみ。半日遅れとの情報もありました。

15日当日は、朝からぐんぐん気温が上昇。私の仕事は会場までの誘導です。会場がパンクするほど来場者があった際には重要な役目だったのですが、来場者は満遍なく訪れて混乱はありませんでした。会場内の様子を眺めながらの余裕のあるポジションで、のんびりとフェス気分も楽しめました。

9時に開場し、「大風呂敷プロジェクト」→「音楽解放区」→「ライブ」という流れです。

「大風呂敷プロジェクト」は木村真三さん発案の企画。以下は、HPからの抜粋です。
「プロジェクトFUKUSHIMA!」はその立ち上げにあたり壮大な大風呂敷を広げました。世界的に名前が知られることとなった悲劇の場所「FUKUSHIMA」を、世界が変わるための始まりの場所「FUKUSHIMA」へ変えていく。そんな大それた提案がすぐに実現するとは思っていません。でも私たちは大風呂敷であったとしても、切実な思いとして、これを世界に発信しました。世界と、互いと、自分と向き合い、議論し、考え、行動する、そんな始まりの場所となることを目指して声を出しました。今は中身の足りていない、夢物語のような話かもしれません。でも、言い始める、動き始めることからしか現実は変わってはいかない。そんなことに多くの人が薄々気付き始めたのではないでしょうか。そんなわけで、最初の一歩として一緒に実際に本物の大風呂敷を広げてみませんか? そう、私たちにはそんな、くすっと笑えるようなシャレっけも必要だって思うのです。

日本中から使わなくなった風呂敷や布きれなどを集め、ミシンで縫い合わせ、10m×10mほどの大きな風呂敷を作る。作業は、事前に福島市内の大友さんの実家で行われた。出来上がったパッチワーク上の風呂敷は、来場者も参加して会場全体に敷き詰められていく。中には福島に住む人たちへ向けてメッセージが書かれたものもあった。そして、この風呂敷にはフェス会場の放射線量を下げるという意図もある。皆で風呂敷を広げ、会場が様変わりしていくのを見るのは爽快な気持ち。

次第に人が増えてきました。「音楽解放区」への参加者たちです。「音楽解放区」とは県内、県外からプロ・アマ、ジャンル問わずミュージシャンを集め、会場内で自由に演奏してもらうという試みです。オカリナを吹くおばあちゃん、ギター片手に弾き語りをするおじさん、ドラムセットやジャンベを持ち込み演奏する若者など。皆が皆、緩やかに楽しんでいます。個人的には、震災後福島で感じたことがなかったような開放感を感じます。今日一日がとてもいい日になりそうな、そんな予感をさせる雰囲気。
この「大風呂敷プロジェクト」→「音楽解放区」へといたる「流れ」が本当に素晴らしかった。

ライブについて。「オーケストラFUKUSHIMA!」これも出演者はプロ・アマを問いません。楽器で「音を出せる人」であれば、上手も下手も関係なしです。大友さんの「こっちこっち~」という声のもとに皆が集まって来ます。楽器もバイオリンからトランペット、机を叩いて音を出す人など何でもありの総勢200名以上。リハーサルは昨日の一回だけだったそうです。指揮者の大友さんの振り下ろしたのを合図に「バン!」と音が鳴リ始め、厳しい日差しの中、音を出す喜びに溢れた大きなオーケストラがどんどんと熱気を帯びます。

全体的にマイナーな出演者が多かったのですが、やはりメインは「坂本龍一+和合亮一+大友良英」による「詩の礫」。二人の即興演奏をバックに和合さんの詩の朗読。「福島に生きていく 福島を生きていく」時に激しい気迫でことばを発する和合さん、伴奏の坂本さんと大友さんの即興がそれを追いかける。皆立ち上がりピクリともせず聴いていました。催しのなかで、緊迫した雰囲気が流れたのはこの時と木村真三さんの放射能汚染マップについての報告くらいでした。

イベント終了後、運営スタッフから話を聞きました。総来場者は約1万3千人、時間帯ごとの最大来場者数は和合さん達の「詩の礫」の時で5千人程。また、USTREAM配信は延べ25万人にもなったとのこと。大手スポンサーをつけずフリーのフェスティバル、そして、会場が福島。設営に問題点はなかったか?県内からの来場者が少なかったのはなぜ?などなど、色々と課題はあったと思います。出演者、スタッフなどは交通費、報酬はなしでボランティアでの参加でした。今後、運営面でも基盤が固まっていき継続的な取り組みになっていくことを切に願います。

フクシマのことを考えながら、その場所に誰かと居続けること。簡単なことのように思えて、難しい。これだけ多くの方々が県内、県外から集まり福島を盛り上げてくれました。参加してみて、「次へ」の可能性を感じることができたイベントでした。

映画祭「イメージフクシマ」
映画祭「Image.Fukushima」は8/10~14に福島市内の映画館フォーラムで行われ、ここに原子力に関係する新旧のドキュメンタリーが揃いました。

トークショーには「ミツバチの羽音と地球の回転」の鎌仲ひとみ監督、前福島県知事の佐藤栄佐久氏、福島県三春町在住で東日本大震災復興構想会議委員の玄侑宗久氏など、多数のゲストが招かれました。
私が参加したのは最終日。150席ある客席は、空席がちらほらと目立ちました。トークショーは、市内で果樹園を営んでいた安斎伸也氏と「放射能から子どもたちを守るネットワーク」の吉野弘之氏の対談。安斎さんは事故後に新たな耕作地を求めて家族で北海道へ移住したとのこと。事故後の対応についての心の内や、父親として感じていたことなど、個人的な話をひとつひとつ丁寧に確認していくように話をされます。
そこで深刻な情報を聴きました。
「若い夫婦の間で離婚が増えてきている。また、被曝した妊婦の中絶も実際に起きている」
離婚、中絶など決してリアルタイムで表には出てこない情報です。
「どうしたらいいのか、何か方法はないのか」そんなことを話続けて5ヶ月たちますが、事態は確実に進んでいると感じます。福島では、圧倒的かつ非日常的な放射能被害と、日常生活が入り組んだように存在しています。
別日にあったトークショーでは、鎌仲監督が「福島の人たちが、県外の人に福島にどういうことが必要なのかもっと情報を発信しないとだめよ!」とおっしゃっていたそうですが、この複雑さを理解するには想像力を要します。

懇親会で来場者の方や運営スタッフと、来場者数やイベント自体の結果、福島の現状などを立場関係なく話ができました。運営側のあるスタッフは、現状の問題点と感想を次のように話していました。
「素晴らしい映画祭になった。地域に根付いた映画館としてこれまで様々な企画の上映会があったが間違いなく誇れる内容です。来場者数については目標に及ばず物足りないが…、原因としては、告知面や時期などいろいろあるとは思う。しかし、こういった現実に向き合おうとする真面目な内容が敬遠されていることも十分に予想できる。それもまた今の福島の現実ではないか。」

今後、東京都内での上映も企画中とのことです。福島の状況は、放射能汚染についての捉え方が、自治体や各市民団体はもちろん各家庭や個々人で異なっています。そして、そのことが実際生活を送っていくなかで錯綜した状況を生んでいます。「フクシマ」についてのイメージを、他者と交換すること、他者に伝えること、こういった機会の有難さや大切さを確認した映画祭でした。今後もこういった動きを応援していきたいと思います。


「イメージフクシマ」 
「プロジェクトフクシマ」 

追記として、
私の実家は福島市渡利地区です。市内では大波地区と並び、放射線量が高い。8/13、我が家でも父が家敷地内の「放射線マップ」を作成。最も数値が高かったのはガレージ下で4.0μsv/hを計測したとのこと。どのような考え方をとっていき、どのように自治体へ働きかけ、東電に対して補償を求めていくか。町内会での住民の動きも高まってきています。先日は、町内で除汚についての要望などをまとめて市長へ提出した、とのこと。事態はまだ始まったばかりと感じます。

[09月02日追記]
私が卒園した保育園(園児約100名)の園長先生とお話した内容を追記します。
「食品の購入や手配で困っている。現状、産地を選びながら購入しているが、安全な食品の確保と父兄への説明に難しさを感じている。全国ネットワークのある流通組織・福島農民連が食品分析機を購入するので、そこに依頼して計測をしながらの安全管理ということが今後少しは可能になってくる。また、将来的には測定したうえで、汚染されていない福島産のものを使いたい考えもある。汚染されていない安全な食品の選択肢が沢山あるとよいと思っている。」
先生からは、4月以来何度かお話を聞いています。先生は園児の内部・外部被曝対策、父兄との関わり、地域の病院との連携、被曝対策の講演会の開催など多方面で頑張っている方です。県内の保育園で組織しているネットワークの代表ともきいています。
「子供達を守るために、ひとつひとつ仕事をこなしていかなければならない。だが、現場では段々と追い込まれて来ているとも感じている」というお話が印象的でした。とても心配です。
園児の食事は、全て施設内で作っています。お昼と3時のおやつ分です。現状では、保育園で使用する食材について指導する行政の部署などはありません。放射能汚染された地で子どもを育てなければならない人々が大勢いるのが現状で、そういったことへの現実的な対策や支援が今後望まれます。

2011年08月09日
福島県 三陸水産(有) 雨澤進

この度は、三陸地方を中心に襲った東日本大震災復興のため、心暖まるご支援を賜り、心より厚くお礼申し上げます。
7月に入り、気仙沼港には、かつおが水揚げされるなど復興の兆しも見えています。皆様から頂きました義援金は、三陸水産並びに、志を共にする三陸地方の漁民の生産者・福島県いわき市常磐沖の漁場からの新鮮な魚介類を生産された漁民の生産者等の皆さんの復興のために、有り難く使わせて頂きます。

この漁民の皆さんは、家族・仲間・家・加工場・冷蔵庫・船・漁場・老後や将来の夢・日々の生活等、すべてが大津波によって、失ってしまいました。
特に、宮城県南三陸町にある三陸水産三陸工場は、南三陸町の中核的な役割を担い「雇用を促進・生産、そして、漁民との連携によって豊かな自然との共存共栄」を目指し、漁業を推進して参りましたが、津波に流され、その後の「がれき」の撤去は完了したものの再建まで遠い道のりが続いています。
また、HACCPを取得し、持続可能な漁業(MSC)を推進したタラコ製造の石巻工場も壊滅的な被害の中、地盤沈下によって、1日2回の満潮では、三陸工場同様、海水に浸る状況が続いています。
そのような状況の中、私どもは、「三陸のきれいな海、大自然に恵まれた豊かな漁場」の復興へ向け、がれきの中から、漁具の数々を探し出し、漁業の再開を目指し、全力で取り組んでいます。

皆様からのご支援が、漁民の皆さんと共に「もう一度、立ち上がろう」と頑張り合う「復興を成し遂げる」大きな弾みになっています。
皆様からの心暖まるご支援に、三陸水産三陸工場・石巻工場一同、並びに各地の漁民(生産者)を代表し、心より厚くお礼申し上げます。誠に有り難うございました。

なお、今後の三陸や各地の復興を成し遂げるには、3年とも5年とも言われていますが、三陸水産は、今秋から漁民と一緒に各種の生産に着手する準備を進めています。
皆様が、これから細々と生産する安心・安全な海産物を「購入することで漁民の励みと生活が出来る」よう、引き続きご支援をお願い申し上げます。
必ずや、三陸の自然の豊かさ・きれいな海がよみがえり、同時に、皆様に「大自然からの贈り物」をお届けし、復興のご支援に恩返し出来る日々が到来するものと確信します。
重ねてお願いを申し上げ、三陸復興義援金の心からのお礼と致します。ありがとうございました。

8月1日付の農水省通達(※)放射性セシウムを含む肥料……の暫定許容値の設定について

2011年08月05日
鹿児島県大島郡徳之島町 奥田隆一

まづ、この通達によって全ての肥料・資材・飼料の生産・販売・流通・使用が一旦全てとまるでしょう。
放射能残留値を確認しない限り使用も販売もできないということは一旦農作業は中断です。

徳之島では丁度カボチャの植付け準備に入っていたところです。
インゲンの肥料も来月にはすきこむ予定でしたが、はたして放射能検査は間に合うでしょうか?
JAに問い合わせたところこの通達が出たことも知りませんでした。
JAが上部組織の経済連に問い合わせたところ経済連もこの通達を把握していません。
放射能残留値の証明書は出せるかと聞いたところ今の段階では出せないそうです。

今後生産される肥料・資材・飼料については製造業者が確認義務を負うことになりますが、
すでに製造・出荷されていた肥料・資材・飼料については販売業者が確認することになります。
すでに購入済みの肥料・資材・飼料については農家が確認することになります。
例えば千葉県で製造された肥料が徳之島の農家の倉庫にあった場合、誰がどのような手段で確認するのでしょうか?
製造業者や販売業者が農家の庭先まで来て測定するのでしょうか?
製造業者・販売業者・生産者が全員放射能測定器を保持するのでしょうか?
ほとんど現実的とは思えない通達が出てしまいました。

今現在、国が認めている汚染地域は17都県に渡っています。今後増えるかもしれません。
少なくともこの地域で生産・製造された原料の肥料・資材・飼料は汚染の可能性があるということです。
今回の通達では17都県に限らず全てに確認が必要なようです。

疑問点もあります。
1. なぜ400Bq/kgなのか?
理由として長期間使用しても原発事故前の農地土壌のセシウム濃度の範囲に収まる水準であり、施用作業時の外部被爆が廃棄物再利用のクリアランスレベル10μSv/年を下回るとあります。
ここには施用量は書かれておりません。1t入れても10g入れても一緒ということでしょうか?
外部被爆に施用量も作業時間も関係ない?
一方で、農業新聞では10a当たり2t施肥しつづけても農作物から食品衛生法の暫定基準値を超える放射性セシウムが検出されないことを理由に挙げています。
これは一体どちらが正しいのでしょうか?
農家の外部被爆が問題なのか?
消費者の健康が問題なのか?

それでは水田の作付許容値が5000Bqというのはどのように設定されたかといえば、稲の移行係数0.1を掛けると500Bqになるので食品衛生法暫定基準値に収まるからですね。
では、なぜ今回は農家の外部被爆から基準値を設定したのでしょうか?
基準値の設定方法に論理的整合性が見られません。

福島の稲作農家は5000Bqの圃場で外部被爆しても構わないということでしょうか?
5000Bqの圃場で400Bqの肥料を施すのは構わないのか?

もし、食品の残留が問題になるなら水田と畑作では移行係数は異なります。
農水省の発表によるとじゃが芋の移行係数は0.01ですから稲の10分の1です。
水田の10倍施用しても大丈夫ということになります。トマトは0.0007です。
作物ごとに施用基準を決めるべきではないでしょうか?
資材の施用量もどのような組み合わせで暫定許容値を超えるのか農家には判断不能です。
300Bqの米糠200kgと200Bqの魚粕500kgではいくらになるのか?
401Bqの米糠は10g入れてもだめということになりますが、一体この両者の差は??

ところで7月26日、新潟県は放射性物質の極めて高い稲わらを給与した牛肉でも暫定基準値内に収まっていることから、稲わらと肉牛の放射性濃度の相関関係に疑問を呈し、農水省に調査の要請をしております。つまり肉の汚染の原因は餌だけではないのではないか?という事です。
言い換えれば餌だけ基準値を守っても肉が安全とは言い切れないということです。
ここで真っ先に疑われるのは飲み水でしょう。
しかし、水が原因となると人間にも影響してきますから、怖くて国は手が出せないのではないか?
家畜も農作物も水を調べろとなったら収拾がつかなくなるでしょう。
そもそも水田の移行係数0.1というのも水の汚染を加えて計算されたものなのか?
土壌含量のみで実験されたものならば、水系の汚染された地域での5000Bq圃場では農作物は基準値を超える可能性がある。もはや何を頼りに安全を考えればよいのか我々素人には判らない。

米糠や魚粉や落ち葉堆肥よりも化学肥料のほうが安全だということになりかねない。

我々は一体今、何を守ろうとしているのだろうか?
消費者の健康か? 地球の生態系か? 自分の生活か? 自分たちの組織か?
どういう立場で考え、仕事をするべきなのか?
国の通達や暫定基準値さえクリアーしていれば、それで何が守れるというのか?

30年の有機農業の歴史が吹き飛んでしまいかねない正念場に居る。

※平成23年8月1日 農林水産省
放射性セシウムを含む肥料・土壌改良資材・培土及び飼料の暫定許容値の設定について

1.暫定許容値の設定

(1) 肥料・土壌改良資材・培土中の放射性セシウムの暫定許容値
肥料・土壌改良資材・培土中に含まれることが許容される最大値は、
400ベクレル/kg(製品重量)
(肥料等を長期間施用しても、原発事故前の農地土壌の放射性セシウム濃度の範囲に収まる水準。この水準であれば、農地への施用作業時の外部被曝が廃棄物再利用のクリアランスレベル(10 μSv/年。平成23年6月3日原子力安全委員会決定)を下回る。)
ただし、
1) 農地で生産された農産物の全部又は一部を当該農地に還元施用する場合
2) 畜産農家が飼料を自給生産する草地・飼料畑等において自らの畜産経営から生じる家畜排せつ物又はそれを原料とする堆肥を還元施用する場合
3) 畜産農家に供給する飼料を生産している農家等が、当該飼料を生産する草地・飼料畑等において、当該飼料の供給先の畜産経営から生じる家畜排せつ物又はそれを原料とする堆肥を還元施用する場合
においては、この限りでない。

(2) 飼料中の放射性セシウムの暫定許容値
1) 牛、馬、豚、家きん等用飼料中に含まれることが許容される最大値
300ベクレル/kg(粗飼料は水分含有量8割ベース、その他飼料は製品重量)
(飼料から畜産物への移行係数、食品中の暫定規制値(放射性セシウムについては、乳200ベクレル/kg、肉500ベクレル/kg)及び飼料の給与量から算出。)
ただし、乳用牛(経産牛及び初回交配以降の牛)又は肥育牛以外の牛のうち、当分の間、と畜出荷することを予定していない牛に給与される粗飼料であって、その生産者自ら生産したもの、又は、単一若しくは近隣の複数の市町村内で耕畜連携の取組等により生産したものについては、例外的に3000ベクレル/kg(水分含有量8割ベース)まで使用を認める。この飼料を摂取した育成牛は、肥育牛として12ヶ月以上肥育した後にと畜出荷すること。
2) 養殖魚用飼料中に含まれることが許容される最大値
100ベクレル/kg(製品重量)
(飼料から水産物への移行係数、食品中の暫定規制値(放射性セシウムについては、魚500ベクレル/kg)及び飼料の給与量から算出。)

製品重量とは、配合飼料等、家畜に給与される製品段階の重量とする

2011年07月19日
岩手県陸前高田市 産直グループ代表 上野 孝雄

前略
町の中心だった海岸部は徐々に片づいてはいるものの、残っている建物は原爆ドームのようです
ボランティアの人達にも助けられ町は少しずつ片づいて来ています
皆さんには色々と御心配をしていただき、又、お見舞までと、本当に感謝の心で一杯です
これから少しずつ皆さんにご恩返ししようと、会社の方も元に戻るには二、三年はかかると思いますが、頑張って工場の再建を見通しております
本当にありがとうございました
まずは お礼まで

[ポラン広場東京事務局]
産直グループ・上野代表に電話で近況を伺いました 
8月20日頃を目処に仮設工場を建て、直送の鮮さんまから再始動させたい
8月20日以降に大型船が入港する予定
調査船からの報告によるとさんまの状況は大型の良いものが獲れそうという
来月になれば、画像も含めた情報を送れる
他にも今後のことで、うには来年より再開したい、ほたては3年ほどかかる見込みとのこと
その節は大変お世話になりました、今年は利益のことなどは考えずに仕事をしていきます、とおっしゃっていました

2011年0719月03日
神奈川県横浜市 中村商店 蔵野浩伸

6日に奇跡的にいわきのホテルが取れたので那須塩原から会津西街道をのんびりと走り熱塩加納に行ってきました。暑かったです。
稲は多少茎数は少ない気もしますが順調です。
ただ昼時のため誰も田んぼには見当たらず、除草の合鴨もどこか日陰で休んでいるようでした。
もう田んぼから引き上げたところもあります。

それにしても地域全体がひっそりと感じます。
今回の汚染牛の問題が追い討ちを掛けてしまいました。

南相馬から牛が出荷されていたとは知りませんでした。
あれだけトレサビリティがしっかりしているのになぜ検査もしないまま流通させたのか?
農水・厚生労働省、県や食肉公社など、一体何をしていたのかと腹立ちが収まりません。
会社では先週金曜日からの福島産は流通量が目に見えて減っています。
安全だとは分かっていても安心できないんですね、「福島」では。

裏磐梯から猪苗代湖、磐梯熱海から高速でいわきに行きました。
観光客はごくわずかそれも殆どがいわき・福島ナンバーです。
被災者ゼロ円高速で来てるんです。
那須塩原でも感じましたが、1000円高速の終わりが相当響いています。
地方の景気を考えればもう少し違う方法もあったはず。

ホテルは個人経営、着いたら誰も居らず連絡先が書いてあったので電話するとおばさんが「直ぐにはいけないので鍵が置いてあるから勝手に入ってください」
原発関連の仕事をしているカン坊が7時頃に来ることになっていたので、6時半頃にカウンターに行くとおばさんが孫娘と一緒にいた。
色々といわきのホテルの現状を教えてくれました。
1)事故直後日立から「水が出なくてもいいから貸し切らせてくれ」と言われ20人ほどを受け入れたが、初日現場に行ったままホテルには一人も戻らなかった。日立から「何人戻った?」と連絡が来たそうで、つまり全員トンヅラした訳です。事故の法的責任は無いとは言え酷い話だ。
2)今は清水建設の作業員を受け入れていて、全員OBとの事。日当はかなり良いそうです。

翌日の帰りは朝5時にホテルを出て6号線をトコトコ、日立港の道路の液状化はかなりのものですね。
大洗から鉾田・北浦・香取を抜け大栄ICから横浜に戻りました。
茨城・千葉の被害ももう少し報道されても良いのにと思いました。
秋までもうすぐです。どんな戦いになるやら。


2011.07.16 12:23~40  福島県喜多方市熱塩加納町 さゆり米の田んぼ

左の画像:涼しい午前中に合鴨たちが懸命に仕事をしたのだろう。
水がまんべんなく濁ってしっかりと雑草を抑えていた。
右の画像:中央右上の小さくて白いのが三の倉スキー場から舞い降りて来たハンググライダー。
道路を横切って飛んでるのはカラス。実に平和な景色だが何かさびしい。

熱塩加納はいつも通り。ただ、風評被害により野菜などの売り上げ・観光客は激減している。
喜多方市や会津若松市はかなり車が出ているが、よく見ると殆どが浜通り等からの被災者だ。

2011年06月29日
新潟県中魚沼郡津南町 関根秀夫

早速お礼申し上げなくてはならなかったのに、遅くなりました。
義援金をありがとうございました。我が家の復興の為、大切に使わせて頂きます。
そして、3月11日からの数々の災害に心を痛めて下さっている会員の皆様と消費者の皆様にも厚く御礼申し上げます。
今後のことはどうなるのか?
私達、農業を営むものにとっても暗中模索の様に思います。とにかく極まで生きようと思います。
時節柄、皆様どうか御身お大切に。
ポラン広場東京の会員皆様と消費者の皆様のご健康をお祈り申し上げます。

ラパンノワールくろうさぎはこう考えます
3/11以降の原発と天然酵母・国産小麦で作るパンと焼菓子の原材料について

2011年06月26日
埼玉県秩父市 ラパンノワールくろうさぎ 山田ナオミ

東日本大震災からはや3ヶ月あまりが過ぎました。
福島第一原子力発電所の「原発震災」は、収束の目処も全くつかず、放射性物質の垂れ流し状態が続いています。
燃料棒が溶け落ちたという事実、増え続ける汚染水、作業に当たる人々の深刻な被曝、一体何処まで最悪な事態となっていくのか、どのような収束の形が可能なのか、答えは出されていません。

ここ秩父でも、5月には牧草から農水省の基準値を上回る濃度のセシウムが検出されるなど、影響が出ています。
福島第一原発から離れていても、風向きや地形、降雨のタイミング等いろいろな要因が重なって、放射線量の高い地点があることが知られてきました。
関東一円の大気中の放射線量のみならず、土壌、農作物の放射性物質の細密で多様な測定が求められています。

私たちは、より美味しく安心して食べられるパンを目指し、1991年の創業以来パンを作り続けてきました。ここ秩父に店舗をオープンしてからも、はや12年を迎えようとしています。
くろうさぎのパンや焼菓子の主な原材料として、小麦粉は北海道と群馬・埼玉県産のもの、小麦全粒粉は埼玉・群馬・栃木県産の農薬・化学肥料不使用小麦粒を当店の石臼で自家製粉しています。ライ麦粉はアメリカ産オーガニックのものと、栃木県産の農薬・化学肥料不使用ライ麦粒を当店で石臼挽き自家製粉したものを使っています。
平飼い・自家配合飼料給餌の鶏卵と農薬・化学肥料不使用の野菜は毎週近郊の農家から運んでもらい、ものによっては茨城県産の農薬・化学肥料不使用の野菜や足りないときは地元秩父産のものを購入して使っています。ドライフルーツ・ナッツ類は海外のオーガニックのものです。
現在これら関東の原材料が、福島第一原発から垂れ流されている放射性物質の拡散によってどのような影響を受けているか、ごく一部を除いてまだ把握できていません。
小麦類は6月末現在まだ昨年収穫のものを使っています。
7月下旬くらいから今年度の小麦になります。

農家の方々とも話し、くろうさぎではこれから小麦、ライ麦、野菜の一部(すべてはとうてい無理なので)等をとりあえず放射性物質検査機関に出し、結果をHPなどで公開していこうと思います。
結果に対する答えはそれぞれのお客様の判断に委ねます。もちろん、くろうさぎとしての判断もいたします。

基準値以下だから、不検出だから、という理由で「安全宣言」をするつもりはありません。
被曝はどんなに低い数値のものであっても、これで安全ということはありません。妊産婦、乳幼児、女性、男性、そして個人で感受性が違います。空気や水、食べものから取り込んでしまう内部被曝は極力避けるべきですし、また、長期に亘る低線量被曝がどのような結果をもたらすか、よく分っていないのに安全だとするべきではありません。
放射性物質の点で安心?だとしても、外麦(外国から輸入した小麦)を使う選択は、私達にはありません。今の時点での考えでは、秩父でパンを作り続けていくつもりですし、これは使えないとはっきり判断できない限りは、埼玉、栃木、群馬の小麦、ライ麦を使っていくつもりです。
ですから、静岡のお茶からさえ放射性物質が検出されている今、単純に考えてくろうさぎのパンも安心して食べられるパンとは言えないかも知れません。
けれども私たちは、放射能とともに生きていかざるを得ない世界に立っていると思います。
どのように生きていくかは、それぞれが考えることです。

今後状況が悪化していくことも十分考えられる中、事実を知る努力を続けること、農家の方々と共に問題解決に向けて取り組んでいくことは、最低限すべきことと思っています。

スリーマイルやチェルノブイリの原発事故を経てもなお、この福島原発事故を回避できなかったことは、痛恨の極みです。
原発のない世界を望みながら、私自身がどれだけ真摯に取り組んできたといえるのか、自分の努力の至らなさの結果が、今あるという他ありません。

働く人の被爆なしには稼動できない原発、生み出される放射性廃棄物の行き場もない原発、電力不足などとは比べものにならない不幸を生み出す原発……
今すぐすべての原発を止めたとしても、長い長い年月の間、放射能を漏らさないように管理しなくてはならないのです。私達は子々孫々に大変厄介な遺産を残していくのです。

選べるものなら、原発で作られた電気は使いたくありません。
今から日本も発電送電を分離し、電気を選べるようにすべきです。
このことが脱原発への大前提でしょう。
再生可能なエネルギーへのシフトは、未来へ生き延びるための当たり前すぎる一歩です。
多様な一歩が、いくらでもあるのではないでしょうか。
今原発にしがみ付いている努力やお金や知恵のすべてを、そちらへ向けさえすれば。

陸前高田市の八木澤商店の河野さんご家族にお会いしてきました

2011年06月17日
東京都杉並区 ポラン広場東京参加店・結 木浪玉代

阿佐ヶ谷・結の木浪です。

6月12日、東北・北海道地方訪問(6月10~23日)をするNPOポラン広場東京及び(株)PODの神足代表と新幹線古川駅で落ち合い、宮城県北部から岩手県南部の海岸線を周り、陸前高田市の八木澤商店の河野さんご家族にお会いしてきました。皆さんとてもお元気でパワフルでした。もちろんこの3ヶ月という時間の経過もあるでしょう。

陸前高田市は途中で通った石巻市、女川町、南三陸町、気仙沼市など他の被災地に比べかなりきれいに瓦礫が片付けられ、気仙川の橋の工事(※)も半分まで進んでいました。高田松原の奇跡の一本松が茶色くなりながらも凛として立っています。高台から見るとどこまでもどこまでも見渡す事が出来ます。だからなおさらその被害の大きさがよくわかりました。

八木澤商店があったあたりから少し離れた高台に登る時に、その山裾が青々としていて、逞しい雑草だなぁ、と思っていたら、なんと八木澤さんのところの原料「小麦」だったのです。トラックに積んだ小麦を倉庫に搬入している写真を見せてもらいました。そのトラックの足下に津波がきているのです。「家の小麦なのよ、流されたのよ、塩害にも強いんだねぇ、塩味がするのかねぇ」みんなで大笑いしました。

一関市大東町の新営業所も本格稼動に向けて忙しそうに準備していました。瓦礫の中で見つかったという「経営理念」も汚れたままの状態で飾られていました。新社長始め営業、商品開発担当者も若いスタッフ達です。食品分析担当だった女性は突然に商品企画を命じられたそうですが、皆、やるんだ!という決意がひしひしと伝わってきていい顔をしています。醸造する場所も決まりそうだと、嬉しそうに話していました。

河野社長のお話で、地震による地盤沈下や津波で傷められた山の木々を切っていることの影響で浸水・洪水・土砂崩れなど、梅雨時期も夏以降も危険はあるということです。陸前高田市の復興計画に行政が方針(※)を決めるのは具体的には秋口になるから、それまでに仲間たちと力を合わせ、元の場所に戻れるかどうかはまだ分からないが、自分たちの仕事を作り出して行かなければ、又、行政に産業ベースで政策提言をしたいと熱く語っていました。八木澤商店の商品は地元の水産加工場や消費者での利用が半分を占めていたから地元と共に働くのだそうです。

八木澤会長のお話には「自然エネルギー活用の特区、津波資料館、防災大学・研究所」などの言葉が飛び交い、10年後に世界中から人々に来てもらえるような地域づくりをしたいと聞きました。特区については、一市三町(南から南三陸町・陸前高田市・大槌町・山田町)は行政・教育・医療機能が壊滅し、町が消滅したところを特区に指定して進めることを強調されていました。

既に始まっている県内出荷に続いて、7月15日からは県外出荷がスタートします。
第一弾の醤油、味噌の原料は、国産大豆・麦や農協の倉庫に保管してあった分が助かったという地元陸前高田産大豆、八木澤商店で作った米などが考えられています。
国産丸大豆醤油は360ml瓶詰め、味噌は商品名「おらほの味噌」800gカップ入りと「やわらぎ」500g袋入りの2種類、「君がいないと困る(味付ポン酢柚子)」170g瓶詰め。ラベルは従来の八木澤商店のものと、委託製造で製造者ではない新ラベルの「販売者八木澤商店」となります。

つゆ・タレの製造も9月を目処に進めているそうです。製造場所として、近くにある小学校跡地の校庭が候補地にあがっています。加工に使う水が良さそうなので、そのまま本格製造所にならないかとも考えているそうです。又、来年からは、田畑も従来通りに八木澤商店で耕作する考えのようです。

新しい社長の名刺の裏には、基本方針 1、生きる 2、共に暮らしを守る 3、人間らしく魅力的に、と書かれていました。新生「八木澤商店」はまもなくスタートします。

※(2011年4月16日 土曜日 岩手日報)
国土交通省三陸国道事務所は15日、東日本大震災で大破、流失した陸前高田市気仙町の国道45号気仙大橋の仮橋の設置工事を16日から行うと発表した。気仙川に架かる全長181.5メートルの同橋は津波で流され、同市から気仙沼方面へのアクセス道が寸断された状態となっていた。9月末の完成予定で、住民の利便性向上が期待される。
仮橋は気仙大橋の約10メートル下流に設置予定で長さ210.6メートル、幅9メートル(車道3.5m×2 歩道1.5m)の片側1車線道路。数年間の利用を想定し一定の耐久性を確保する。事業費は約7億円。
水上の施工に必要なクレーン船の航路確保のため、気仙川の川底を掘削し水深を深くする工事から着手。9月30日までの完成を目指す。
同市と気仙沼方面を結ぶ国道45号の気仙大橋は、気仙川をさかのぼった津波により大破。上流に約100メートル流され、現在は橋脚のみが川面に突き出している。2006年には橋桁と橋脚の間の補強工事を行ったが、津波には耐えられなかった。
現在は迂回路として狭い道路はあるが、大型車は大きく迂回を余儀なくされている。
一方、「新橋」の設置については時期や位置、工法を含め現時点で見通しが立っていない。同事務所は「破損した防潮堤の復旧や今後のまちづくりなど、防災上の観点から県や市町村との調整が必要になるだろう」としている。

(2011年6月18日 土曜日 岩手日報続報)
東日本大震災で被災した陸前高田市で、橋や防潮堤の復旧工事が進んでいる。国交省東北地方整備局は17日、流失した国道45号気仙大橋の仮橋が完成する時期を、当初予定の9月末から7月中旬に2ヶ月以上前倒しすると発表。市民の移動や復旧工事の障害になっていただけに、大きな一歩となる。台風や高潮に備えた高田松原防潮堤の応急復旧工事も始まり、8月末までにはおおむね完成する見込みだ。
気仙大橋は気仙川河口に位置し、東岸の中心市街地と西岸の気仙沼市方面を結ぶ橋として震災前は1日1万4千台が通行していた。
津波で落橋したため、現在は気仙川沿いに5キロさかのぼり、橋を渡って往復10キロの迂回を行う必要がある。狭い道を通行できない大型トレーラーなどは内陸側へ数十キロ迂回しなければならないケースもあり、市民の移動や復旧工事の障害となっている。
仮橋は4月16日に着工し9月末の完成を見込んでいたが、悪天候による中断が少なかったことや工事を急いだことにより、2ヶ月以上早い7月中旬までに完成するめどが立った。
仙台市と青森市を結ぶ国道45号のうち、気仙大橋と気仙沼市の小泉大橋(6月中に仮橋完成予定)の2ヶ所が通行不能になっている。気仙大橋仮橋が完成すれば国道45号の全線478キロが復旧することになる。

※陸前高田市震災復興計画策定方針について
陸前高田市では、この度「陸前高田市震災復興計画策定方針」を策定いたしました。
震災復興計画は、将来に向けて希望と夢と安心のもてる新しい本市の復興ビジョンを示し、市の創生と活力向上に繋げようと策定するものです。

フォトメッセージ

2011年06月10日
緑と太陽の会 会長 原源一

熱塩加納町では、6月1日より「ひめさゆり祭り」が始まり、今が見頃となっています。
田植も6月5日でほぼ終了し、緑と太陽の会・生産者の圃場では、合鴨たちが放され仕事を始めました。

続報:周南市議会に続き、下松市議会が上関原発計画の凍結を求める意見書を可決

2011年06月09日
上関原発を建てさせない祝島島民の会(略称:祝島島民の会)

先日、山口県内の周南市議会が上関原発計画中止を求める意見書を可決しました。
その周南市の隣、上関町により近い位置にある下松市議会が上関原発計画の凍結を県知事や国に求める意見書案を、6月9日に全会一致で可決しました。大きな地図で見る

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周南市、下松市はともに上関原発建設による交付金の対象になっていませんが、交付金の対象となる周辺2市3町(柳井市、光市、田布施町、平生町、周防大島町)の議会にも同様の動きが広がっています。

下松市議会の意見書は上関原発計画をはじめとした新規原発計画の「凍結」を求めるもので、周南市の「中止」を求めるものに比べ踏み込み方は浅いですが、中国電力に勤務する議員もいる中でのこの意見書の全会一致による議決は他の自治体の議会の判断にも影響が出るのではないでしょうか。

上関原発はいらないと考える各自治体の住民の皆様には、地元議員にその意思を伝え、「上関原発はもういらない」という声を周辺自治体からもあげる後押しをしていただければと思います。

≪関連リンク≫
祝島島民の会:ブログ

2011年06月05日
神奈川県横浜市 中村商店 蔵野浩伸

苛立たしい日々が続きます。

5月28日が次兄の四十九日だったのですが、天気も調子も悪く、昨日行って線香をあげて来ました。
磐越自動車道・三春ICで降りて349号線で北上、川俣町・飯舘村を抜けて、南相馬市(※)に行き着きました。結構良い道でした。
一般道に降りてからは、大型バイクには2台しか会いませんでした。
飯舘村の西の入り口にはフリーのジャーナリストと思しき人がレンタルバイクを止めて牛の銅像?を撮っていました。
マスクなしでバイクで走り回るバカは私くらいのようです。

(※)南相馬市は、福島県の太平洋沿岸・浜通りの北部、いわき市と宮城県仙台市の中間に位置する
旧小高町、旧鹿島町、旧原町市の1市2町が合併して2006(平成18)年に誕生
隣接する自治体は、相馬市・飯舘村・浪江町 

原町にはかなり人が戻りだいぶ賑やかになっています。
鹿島は相変わらず。
相馬は益々賑やか。

旅館・ホテルは原発特需です。
いわきのホテルが取れなくて唯一一部屋探し当てたのがいわき湯本のビジネスホテルで、仕事を終えて来たカン坊と飲みました。カン坊は原発関連の仕事をしています。

昨日朝、首都高湾岸線を走ってすぐに気がついたのは、「余り見たことがない土曜の朝のスモッグ」、東扇島の火力発電所をはじめあちこちでモウモウです。
ぜんそく患者が昔のように増えるのかなぁ。即効性は放射能より優れてるかも知れませんね。
近所に大きな風力発電が一基あるんですが、稼働当初、「低周波?で頭痛に悩まされているから中止させましょう」と署名が回ってきた事がありました。難しいですね。

今後も機会があれば生のニュースをお伝えしていきます。

2011年05月31日
宮城県気仙沼市 畠山重篤

拝復 新緑の候、
皆様におかれましては益々ご清栄のこととお慶び申し上げます。

さて、この度当地を襲った東日本大震災に際しまして、早々に温情あふれるお心遣いを賜りましたこと、誠に有り難く衷心より御礼を申し上げます。

この度の震災により三陸地方は想像を絶する被害を受け、また私共の気仙沼市唐桑町舞根地区では、五十二戸中、四十四戸が流失、二人の方が亡くなられ、未だ行方の分からない二人の方の捜索が今も懸命に行われております。このような状況下、喪に服しながら私共も復興に向けてゆっくりと新しい歩みを始めました。

震災後も変わることのない森と川と海との連環に支えられ、一日も早い三陸の復興、当地方、並びに水山養殖場の復興に力を尽くして参ります。

長い道程になりますが、今後も皆様のご支援、ご協力を賜ります様、心よりお願いを申し上げます。

早速拝眉の上御礼を申し上げるべきところですが、取り急ぎ書中をもって御礼並びに現況のご報告まで申し上げます。

敬具
漁師 畠山重篤

【News】6月5日「第23回 森は海の恋人植樹祭」… 豊かな海は注ぎ込む川から、川は上流の森から

(2011年6月2日 月曜日 岩手日報)
震災の犠牲者鎮魂と復興祈念 一関で5日植樹祭

「第23回 森は海の恋人植樹祭」は5日、一関市室根町の矢越山ひこばえの森で開かれる。今年は「海よ甦れ!森は海の永遠の恋人 信じよう!集う仲間の心と海にひこばえを」をスローガンに、東日本大震災の犠牲者鎮魂と復興を祈念。海を愛する漁師らの再起を、森から後押しする。
植樹は、気仙沼市の漁師ら「牡蠣の森を慕う会」(畠山重篤代表)と一関市室根町の第12区自治会(三浦幹夫会長)が取り組む。
気仙沼湾に注ぐ大川上流部の山に魚介類の栄養につながる広葉樹の苗木約1000本と、漁船の櫓(ろ)の原料でしなりがあって折れないとされるアズサを植える。
カキやホタテの養殖を営む畠山代表は、震災を「チリ地震津波とは桁違い」と振り返る。いかだや作業場、船、いけすなど全てを流され、約25メートル高台にある自宅目前まで津波が押し寄せた。気仙沼市内の老人ホームにいた母親が犠牲になった。
それでも「海が怖いとか、恨むという気持ちはない。漁師は海から離れられない」と海を愛する気持ちは揺るがない。再開を期し、いかだ作りに励んでいる。
長年取り組む植樹祭は森、川、海のつながりが、環境や生態系保全に果たす役割を広く発信。これまで全国から約13,000人が参加し、約15ヘクタールに苗木約32,000本を植樹している。
全国から今年の開催を望む声が寄せられ、畠山代表が「浜人(はまど)が消沈しているとみんながっかりする」と開催を決意した。

(2011年6月6日 月曜日 河北新報・日経新聞)
豊かな海に戻って「森は海の恋人植樹祭」気仙沼の漁師ら、祈り込め 


5日、東日本大震災の津波で壊滅的な被害を受けた宮城県気仙沼市の港に注ぐ大川の源流域、岩手県一関市室根町の矢越山ひこばえの森で「第23回 森は海の恋人植樹祭」が開催された。ことしは「海よ甦れ! 森は海の永遠の恋人」をテーマに掲げ、宮城県気仙沼市や石巻市の被災した漁師らも参加。震災で一時開催が危ぶまれたが、例年を上回る規模で「いつかまた豊かな海を」と祈りを込めて「復興の木」を植えた。
犠牲者への黙祷の後、主催者の「牡蠣の森を慕う会」代表の牡蠣養殖業者畠山重篤さん(67)が「未曽有の大災害で多くの人が犠牲になり、自分も最愛の母(93)を亡くした。だが、いつまでも負けていられない。植樹祭をバネにもう一度生活を立て直したい」と挨拶。約1200人の参加者から大きな拍手が湧いた。
参加者は矢越山の3合目付近の斜面約30アールに、ナラやブナ、コナラなど40種類以上、約1000本の広葉樹の苗を植えた。クワで掘った穴に高さ1メートルに満たない苗を入れ、復興を祈りながら丁寧に土をかぶせた。
この日、参加した気仙沼市の漁師、鈴木孝幸さん(72)は「街の復興には海が必要。この一本がまた豊かな海を取り戻す力になれば」と話した。
又、埼玉県新座市から参加した女性(67)は「被災地の人々がこれだけのイベントを開いたことに感激した。犠牲者への鎮魂と復興への願いを強くした」と感慨深げだった。

5月25日(水)~27日(金) 福島市と南相馬市へ行ってきました
福島市は私の出身地で、その様子を見に、南相馬市はボランティアです

2011年05月30日
(株) POD 営業三課店舗事業係 POD‐KIVA 西武筑波店担当 佐藤真平

5/25(水)
09:00につくば市発。常磐道、磐越道、東北道を経由し12:00福島市着。
渡利地区へ移動。昔からの知人(40代、女性)に福島市内の状況を聞く。
「疎開をする人たちがまた増えてきている」
「放射線量が高いが、これから暑くなってきてどうすればいいのか。市や県からの指導などはない。草むしりをすることすら、線量を考えると負担だ」
「県内の学校に線量計が配られたが各家庭にも欲しい。地域全般で線量が高いので、どこが特にホットスポットなのか把握して少しでも安心したい。」
途中、この家で飼っている猫が外から戻ってくる。知人いわく「この猫もどれだけ被爆しているかわからない。本当は出したくないが、出さないと猫がストレスでおかしくなるため出している。スクリーニングしたいのだが、動物の場合は手間が違うのでなかなかできていない。」とのことだった。

16:00に福島市を発ち、霊山地区を経由して南相馬へ向かう。すれ違う自衛隊車両多数。
18:00に南相馬鹿島地区の宿に到着。宿の人に話を聞くと、利用者は水道関係などの仕事で来ている人が多いとのこと。明日早いので早めに就寝。

5/26(木)
09:00、地区の社会福祉協議会へ。ボランティアセンターで受付を済ませる。初回だったので、オリエンテーリングを受ける。スタッフの方が強調されていたこと、「一点目は、個人情報の取り扱いには気をつけてほしい。以前参加されたボランティアの方が、遺留品展示の作業で、個人情報をカメラに納め個人のブログで公表してしまい被災者の方が傷ついてしまったことがあった。被災地の住民のことをくれぐれも配慮して欲しい。二点目は予定された作業以外のことは、例え頼まれたとしても行わないでほしい。あくまでも復興するのは我々地元の人間です。何でもやってあげるのではなく、支援者の立場で作業にあたってほしい。」ということだった
続いて、作業内容のマッチング。ボランティア内容は幾つかある中から自由に選べた。その日、ニーズのあった作業は「家屋の泥のかき出し」「避難所の運営補助」「仮設住宅の建設準備」「遺留品の展示場の設営」など。私が希望を出した作業は、遺留品の展示場の設営準備。会場になっている、町の柔道場に車で移動。4人のグループで作業を行った。長野からのボランティアの方1名と南相馬市内の住民3名だった。3名のうち1名は仕事を震災で失い、次の仕事が決まるまで作業するという。もう1名は、老人ホームのスタッフでホームの利用者が県外に避難しているので、戻ってくるまでの期間を作業するとのこと。(もう1名の仕事はわからなかった。)

展示場内には、津波跡から運び込んだ大量の写真、アルバム、位牌、仏具、楽器、ランドセルなどが処狭しと並べられている。全て、コンテナやダンボールなどを利用した手づくりの棚に並べられている。私の役割は、まだ水分を含んでいるアルバムを選別し、内に風が通るように並べること、アルバム一つ一つを見ながら持ち主を特定できるような写真を選び陳列していくこと、この二点だった。大量のほこりなどが遺留品についているため、防塵マスクをつけ、ゴム手袋をはめて作業を行う。戦時中の写真、国内旅行の写真、結婚式の写真、学校で撮った写真。赤ちゃんが生まれた時の写真など、持ち主を失った大量の写真がそこにはあった。作業中も、市民の方々が思い出の品を探しに来る。「見つけた!」という声もあったが、長い間黙々と探す人の姿も。

12:00、休憩をとりしばし雑談。リーダーの方から「南相馬市を選んでくれてありがとう」と言われる。他の地域に比べて南相馬市は原発が近いのでボランティアを集めるのに苦労しているのだという。その他、避難所を何箇所も移動した話など個人の震災体験の話を色々と聞く。
13:00、作業を再開し、休憩を挟んで16時の解散まで作業を黙々とすすめる。

16:30、現地の方から、福島県より災害ボランティアには高速道路の無料券が発行されていると教えてもらう。ボランティアセンターで作業証明を発行してもらい、原町区にある合同庁舎へ手続きに行く。合同庁舎ではスクリーニングが実施されていた。行った時間は、ほとんど利用者はいなかったが、白い防護服を着た人達が長テーブルに座っていた。横には自衛隊車両が4~5台待機しているような状態。

17:00、沿岸地区を見に行く。国道6号は海から5km程。今でも津波で流された船が道路脇に転がっている。田んぼのところどころに瓦礫や車が散乱している。瓦礫のまとまった山などもあるので、片付けが部分部分で進んでいることがわかる。傾いた電柱や巨木が道の横に現れるが、道路自体はふさがれているところはなかった。道を一本、海側へ入ると、未だに電気が通っていないらしく信号は止まっている。降りて歩いてみると、海から離れているにも関わらず潮の匂いがした。

20:00、原町第二中学校へ。避難所として使われているが、体育館がボランティアの宿泊施設になっていた為、利用させてもらう。校舎横には、「宮崎」という文字の書かれた簡易風呂が設置されていた。駐車場には「奄美アースデイ」と書かれた車もあった。色々と話を聞くと、西日本からのボランティアが多いらしいことがわかる。受付を済ませて体育館へ。ダンボールで3m四方ほどのスペースが区切られている。この体育館は、以前いたボランティアの方が要望を出して使わせてもらっているらしい。南相馬市内には、他にベースキャンプが一ヶ所、それからボランティアの車中泊用に道の駅が開放されているとのこと。

05/27(金)
05:00、人の声で目が覚める。顔をあわせたのは60代と見られる男性。話を聞くと、熊本から来ていて南相馬で一ヶ月になるという。だいぶ町に人が戻ってきたこと、2004年にイラクで拉致事件にあった高遠さんがボランティアとして入っていたことなどを聞く。

09:00、ボランティア受付を済ませる。この日の作業は「民家の畑に溜まった泥のかき出し」11名のグループで現場へ移動した。メンバーの中には、埼玉や長野の生協の方、大阪の新聞社の方、広島から来ている方など様々。作業に入る前にボランティアセンターの方から「余震や津波の可能性はゼロではない。常に自分たちの退路を確保して、作業に当たって欲しい。」との事前注意があった。念のため、線量計を持っている人がいるか尋ねたが、持っている人はいなかった(自分も持っていなかったが)。 作業を行った場所は原町火力発電所のすぐ近く。住民の方から話を聞くと、「隣の区画まで津波が来ており、この家は少し高台にあったので助かった」とのこと。津波前は竹やぶだったという場所は、泥が溜まってその面影はない。作業は効率よくすすみ、13:00には終了した。

14:00、合同庁舎へ行き、念のためスクリーニングしてもらう。結果は「基準値100kcpm未満」で問題なしとのこと。
14:30、帰路は飯舘村、川俣町を経由。全村避難になった飯舘村を通ると人の姿がちらほらとあり。一部避難地域になっている川俣町は中心地を通ると人の姿多数。小学生の下校途中とすれ違ったが、マスクをしていない子も。
18:00、つくば着。

3日間滞在した感想として、
福島市も南相馬市も「放射能」という「非日常」が日常の中に完全に入りこんでいると感じた。そして、そのことを意識して適切に避けたり怖がったりすることが非常に難しい状況。南相馬市でのボランティアの感想としては、ボランティアセンターの体制が非常に整い、個人的に以前参加した新潟中越地震の時のボランティア体験との比較ですが、受付や注意事項が徹底していた。ボランティアセンターで出会った地元の人が言った言葉が印象に残った。「復興は各県でそれぞれやったらいい。岩手は岩手で復興をすすめ、宮城は宮城で復興を進めてもらったほうがいい。福島はこんな状況だし、特に南相馬は緊迫した状況。岩手県さんや宮城県さんと、福島を並べてもらったら迷惑かけるかもしれない。」

以上です。また機会があれば報告をしたいと思います

山口県・周南市議会が上関原発建設中止を求める意見書案を可決

2011年05月27日
上関原発を建てさせない祝島島民の会(略称:祝島島民の会)

周南市議会が、上関原発の建設中止を中国電力に申し入れるよう県に求める意見書案を今日の臨時議会で可決しました。

報道によると、意見書案では

  • 周南市の一部が上関原発の建設予定地から30km圏内に入っていて風向きによっては全市が影響を受けることになる
  • 周南市が避難区域になった場合、石油化学コンビナートの工場群が全面停止という事態になる

と述べられ、その上で

  • 現状では安全性の確保が困難

であるため、県が中国電力に対し上関原発の建設中止を申し入れるよう求めているとのことです。
同時に下記の事項を県が国に対して求めることも盛り込まれているようです。

  • 既設の原発の安全審査や事故時の対処法を確立する
  • 原発の新設や増設を凍結する
  • 原発に代わる新エネルギービジョンを早急に策定する

この意見書案は全会一致で可決されたとのことで、今後、正副議長が直接県に届ける予定とのことです。

上関原発計画の中止を求める公式な意見が山口県内の自治体の議会で議決されたことは、上関原発計画が浮上してから約30年で今回が初めてのことです。

周南市の住民の方からは「周南市民として誇りに思えた日」、「周南市始まって以来の歴史的判断に是非みなさんの称賛の声を届けてください」といった声も聞こえています。

島民の会は、周南市議会の「英断」に感謝いたします。

どうか山口県内の他の自治体の市町議会、そして山口県議会も、国や電力会社よりも地域住民の思いをしっかりと汲み上げ、周南市議会のように行動で示して欲しいものです。

そして山口県と二井知事がこの意見書に対しどのように対応するのか、注視していきたいと思います。

生姜畑からの報告

2011年05月25日
高知県高岡郡中土佐町 西村善徳

新緑の初夏を迎えました。忙しかった生姜の植え付けも終わり、あとは芽の出る時期を待つのみとなりました。良い芽が出ますように祈っています。写真は植え付けた生姜に黒マルチをかけているところです。

人災と天災にまけてたまるか.元気出せ日本

島国日本に予想をこえる災害が発生しました。
天災は過去にも繰り返されていまして、その都度立ち上がって新しい歴史を刻んできました。人類の歴史は戦争と災害の歴史なのです。
しかし今回はさらに人災が重なりました。
原発事故は深刻の度合いが日毎に重くのしかかり、時間では解決できない宿題を人類に突きつけてきました。
福島からの避難農家を受け入れていましたが、解決の目処もないままに我が家を去りふる里の近くに帰りました。
「放射能は怖い ふるさとは捨てられないが でもせめてふるさとの近くに住みたい」
大きな悩みを背負って四万十を離れてゆきました。
生姜の植え付けを手伝ってくれましたが、心境は複雑なものがあったようです。

原発はいらない

有機農産物を求め安全な農作物を求める消費者に原発賛成者はいないことを信じています。
僕たちの村の近くに原発が計画されたとき住民は二分され激しい賛成反対運動を展開してきました。僕たちは金より自然の豊かさを選択しました。
原発反対の願いを込めて 生姜畑より

※ポラン広場東京事務局追記
1970年代末に、四国電力が高知県窪川町(現四万十町)に窪川原子力発電所を計画。約10年間におよぶ反対運動により、1988年2月に計画が中止されました

2011年05月16日
茨城県行方市 POD要ファーム 代表 磯山茂男

5月15日(日)、ポラン広場東京からのボランティア7名と要ファーム生産者3名、総勢10名で、80アールの有機圃場にさつま芋の苗20,000本を定植しました。
通常は5日ほどかかる定植作業を1日のうちに終了できました。大幅に遅れていた作業がひとつ片付き、安堵しています。ボランティアスタッフのみなさん、本当にありがとうございました。

震災・原発災害からの復興作業と夏・秋野菜の作付けが重なり、特にさつま芋の定植は、見通しが立たない状態でした。現状をポラン広場東京事務局に相談したところ、急遽ボランティアが募集され、今回の援農が実現しました。
さつま芋栽培の場合、畑の畝立(うねたて)・マルチ(ポリシート被覆)などの準備作業は、農業機械で行なう事ができます。しかし、苗の植付は1本1本を手作業で行なうため、多くの人手と時間がかかります。
人数が多いというのは、本当にありがたいものです。100本近い畝にみるみる苗が植わっていきました。日頃使わない筋肉を使い、また中腰での作業は大変だったのではないかと思いますが、みなさん最後まで頑張ってくれました。定植作業は、昼食を挟んで午後2時過ぎにはすべて終了しました。

今回作付けしたさつま芋の品種は、玉豊(たまゆたか)と紅東(べにあずま)、各40アールずつです。玉豊は秋に収穫して貯蔵・熟成の後、干し芋に加工します。紅東は、販売店やポラン広場の宅配を通じて直接消費者の方々にお届けする他、要ファームで一次加工して無添加菓子類の原料として使われます。10アールで約2トンの収量が見込めるので、合わせて15トンの収穫が目標です

茨城県南地域の一般的なさつま芋栽培では、10アールあたり3,000本の苗が植えられます。要ファームでは、苗と苗の間隔を広めにし、10アールに約2,500本にしています。風通しや日当たりを良くし、有機的な管理によって病虫害の発生を抑えるためです。さつま芋圃場は、周囲を林に囲まれた場所にあり、近隣の慣行栽培畑からの農薬等の飛散の影響がなく、有機農業に適した環境にあります。

秋には美味しい有機さつま芋をお届けできるよう、しっかり育てていきたいと思います。
毎年みなさんに田植えをしていただいていた消費者体験田は、先日田植えを済ませました。これから合鴨を入れるため、水田の周囲にネットを張る予定です。4月に定植したトマトも、順調に育っています。夏には美味しいトマトをお届けできると思います。
これからも末永く要ファームとお付き合いくださいますようお願いし、近況報告とさせていただきます。

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2011年05月02日
栃木県大田原市 天鷹酒造 代表 尾崎宗範

この度の大震災では、震度6強という今までに無い激震に見舞われました。
幸い、社員やその家族も含め人身被害はありませんでしたので、不幸中の幸いと喜んでおります。

しかし、商品の多くが倒れて破損し、発酵中のもろみも、タンクから溢れ、なんと天井まで吹き上がっていました。
タンク自体も台座から外れたり、ぶつかったりと損傷したものも多々ありました。
設備的には、機械類の損傷は軽微でしたが、石造つくりの貯蔵庫が甚大な被害を受け、建て直しを余儀なくされています。

また、仕込蔵も壁が落ち、蔵のシンボル的な煙突にも大きなひびが入ってしまいました。

もっとも残念だったのは、発酵中の有機もろみに、他のもろみが混ざった可能性を否定できないため、「有機性確保」の観点から、通常品と扱うこととしたため、今年の有機純米吟釀と有機純米大吟釀の品切れが確実となってしまったことです。

また、放射能の影響をご心配と思いますが、今年出荷する全ての商品の原料は、昨年までに収穫された原料を使用しており、また、仕込水も地下を何十年も掛けて流れてきた水ですので、放射性物質が入ることはまずありません。

しかし、念には念を入れ、商品と仕込水の測定を行いましたが、当然不検出でした。
今後も定期的に測定し、より安心してお召し上がり頂ける様、努めて参ります。

- 5/16消印で義援金のお礼状をいただきました -

拝啓、
日ごろはお世話になりまして、有り難うございます。
また、この度の震災に際しましては、お見舞いまで頂き、誠に有り難うございました。皆様の暖かいお気持ちに感謝致します。
今回、商品や建物等は被災致しましたが、幸いにも人身被害はございませんでしたことは、不幸中の幸いと喜んでおります。
弊蔵は2014年に創業100年となります。今回のことは、新たな100年に向けて時代にあった設備に更新せよとの天啓と思い、より環境や安全に配慮した設備へと改め、社員一同新たな気持ちで前進して参りますので、どうぞ、今後とも宜しくお願い致します。
この度は本当にありがとうございました。

敬具

特定非営利活動法人
ポラン広場東京 御中

天鷹酒蔵株式会社
代表取締役  尾崎宗範

2011年04月29日
茨城県行方市 ハーブスマンs 福山久之

この度は、たくさんの皆様からご支援、励ましのお言葉をいただきました。
本当にありがとうございました。皆様の温かいお気持ちに深く感謝いたしております。

茨城県鉾田市に隣接するハーブスマンs農場周辺は、震度6強に見舞われました。
道は陥没や隆起を起こし、電柱は倒れ、神社の鳥居は崩れ落ちていました。家の中の食器棚は扉が全て開き、ほとんどの物が粉々に飛び散り、かなり重量のある流し台、冷蔵庫までもが移動していました。作業小屋2棟が大きく傾き、これらは解体する予定です。道や畑も地割れを起こしました。
しかし東北地方の方々に比べたら、大した被害ではありません。物質的なことは、大丈夫です。やり直せる状況です。
甚大な被害を受けた東北の方々が、一日も早く安心して生活できることを心より願っております。

今回の震災をとおして、深く感じたことは、目には見えない「心」や「魂」の存在でした。
あらためてその大切さを知ることができました。

家を壊され、車を流され、土地を失い、目に見える「物」という物をすべて失った東北の方々。
裸にされ、放り出され、むき出しになった「心」の存在。僕らは、とても同じ気持ちにはなれないけれど、その深い傷を負った「魂」に、たくさんの涙を流し、世界中の人々が祈り、愛を捧げ、何とかしてあげたい、その痛みを共有してあげたいと真から思いました。

ある意味、僕らはそれを忘れていたのかもしれません。便利で物に溢れた生活に慣れ、さらにその先にある物質的な豊かさを追い求めていました。膨大な量の「物」を作り、そして膨大に捨て、キリのない発展、繁栄を追い求めても生活の満足度は下がる一方でした。
エネルギーという、生活の基盤をささえるものの根本を考えもせず、湯水のように電気を使い続けた結果が、「これ」です。僕らは自分たちでは手に負えない原子力エネルギーを暗に認め、そしてそれに今、こんなに苦しめられています。後始末は、子供や孫達、その先の世代にまで、押し付けることになってしまいました。
「心」を見失っていたと言わざるをえません。

一日も早く、みんなが元通り、家族、愛する人たちと共に、安心して暮らせる日がくることを切に望んでいます。そのためにできることは何でもしたい。たとえ結果が見えなくても百姓として種を蒔き、畑を耕し、行動することが、希望と未来につながることだと信じています。
しかし、僕らが戻るのは、3.11以前のあそこではない。あの場所に帰ったら、また同じ過ちを繰り返してしまう。次の世代のために、「心」ある新しい時代を創造していかなければなりません。

この東日本大震災を体験し、やるべきこと、子供達に伝えていくことがわかった気がしています。
まずは安心して生活していくためにエネルギー転換がどうしても必要です。
「放射能」の恐怖に怯えながら、農業をつづけていくことはできません。
子供達に美しい自然を残してあげることはできません。
そのためには僕ら市民が声を上げ、意識を変え、行動していくことが必要だと思います。
そして子供たちに、目に見える物を見極める「知恵」を授けると共に、目には見えない「心」の大切さ、「スピリット」の存在を教えていかなければなりません。
まずは自分自身、大人たちがあらためて、学び始めなければいけないと思っています。

皆様と共に、新しい時代を作っていくことができたら、こんなに嬉しいことはありません。
どうぞどうぞ、今後とも宜しくお願い致します。

本当にありがとうございました。

2011年04月19日
福島県喜多方市 緑と太陽の会 会長 原 源一

まだ残雪の見える熱塩加納町でも、ふきのとうが顔をだし、日増しに春めいてまいりました
去る3月11日に発生した東日本大震災では、未曾有の大被害が起き東日本の海岸一帯は壊滅状態です
幸いにも会津地方は、ほとんど被害もなく無事でした
ただ、その後に発生した原子力発電所の事故により、放射性物質の影響が一部の地域の野菜などにみられ、出荷停止や摂取制限が出されました。その影響が大きく、福島県産の農産物全てが売れなかったり、価格の暴落が続いております
昨秋に収穫された米でさえも、売れ残りやキャンセル、返品があるとも聞いております
さゆり米が誕生して今年で32年目を迎えました
「集落単位で取り組む事・上流の農家はきれいな水を汚染せずに下流に流す事・排水路からは取水しない」、つまり汚染物質が飛んできたり流れ込んだりしない条件での栽培、この約束事が熱塩加納全体に広がって長年続いています。熱塩加納町には大規模農家は殆どいません。国が目論む「担い手への集約化・大規模営農」とは真逆の歩みを続けて故郷を守ろうと頑張っています
昨秋収穫された22年度産は、低温倉庫に厳重に管理保管されています
熱塩加納町は、原発のある大熊町からは、100キロ以上も離れていて全く心配もありません
私たちは、第4の被害、風評被害で心を痛めております、どうか過度な風評に惑わされる事なく、これ以上風評被害が拡大しないようご理解と温かいご支援の程、宜しくお願い申し上げます
喜多方地方の農業生活用水の源、日中ダムや用水施設の被害もありませんでしたので、例年どおり田植えが出来ます
23年度も宜しくお願い申し上げます

2011年04月18日
茨城県行方市 POD要ファーム 代表 磯山茂男

3月11日(金) 午後2:46 要ファーム周辺は震度6弱の大地震に

行方市小貫地区で、朝からニンジン畑の最後の収穫作業をしていました。5人で機械を使い収穫していましたが、突然に機械が動かなくなりました。最初は、何が起きたのか分かりません。周りを見わたすと、スギ花粉が舞い上がり、遠くの住宅の屋根瓦が落ちるのが見え、電線が空回りしています。畑に皆、座り込みました。長い揺れが続いたので、地割れの心配もしました。携帯電話が通じないため、事務所に駆けつけましたが、棚からは物が落ち、床に散乱し、事務所内はパニックになっていました。幸いに、スタッフにはケガもなく、事務所、作業所、倉庫、資材置場などの建物は無事でした。後で分かったのですが、トマト栽培施設の柱が何センチも浮き上がっていましたが、これもそれ以上の被害にはならないでしょう。

ここからは、後の見聞も含めた模様を書きますが、まず、隣の鉾田市では震度6強にもなったそうですが、道路をはじめ市内は液状化し、家屋が傾き、廃墟状態になりました。鉾田市にナメコ栽培の施設を持つ村上喜一さん(要ファームのきのこ生産者)の現場に行き見せてもらいましたが、足の踏み場もなくきのこもなにもかもが散乱していました。出荷がとぎれるかもしれないが頑張りましょうと話していました。
旧行方郡(北浦・玉造・麻生・潮来)は、現在行方市と潮来市に分かれています。その潮来市も震度6強で、利根川と太平洋に近く、地盤が軟らかいために液状化がひどく、現在18日も断水が続いている状態です。また、周辺の水田も液状化と田に水を運ぶパイプラインに亀裂が入り、水稲作付けができない状態が続いていると聞いています。その他の地区でも、土盛りをして建てた新しい住宅や住宅地では、家屋が傾いているのを多く見ます。
私共要ファームは、行方台地に位置し、地盤がしっかりしていることもあり、このような被害はあまりないのですが、地震後の福島第一原発事故は、幼い子供を持つ家族の生活とこれからの農業生産を考えると心配です。

3月12日(土)に電気と水道が止まり、18日(金)までの一週間は、ローソクで灯りを取り、水は、内陸で被害を免れた八郷の真家さん(要ファームの鶏卵出荷農家)の地下水をもらいにタンクを車に積んで通いました。
電気がなくても生活はできましたが、オーガニックなクッキーの原料素材で受託製造している野菜加工物について、冷凍庫内の製品をなんとか保たなければならないので、知り合いの建設会社から50kwの発電機を借りてようやく対応することが出来ました。
電気がなくても、生活はできたと書いたのは、LPガスを使用して料理が出来たからです。しかし、畑仕事を終えた後は、やはりシャワーかお風呂が使えないと困ります。これは、親戚にもらい湯でした。昔の薪(まき)で焚く風呂を残しておけばよかったかなとも思いました。

18日(金)の夜遅くに電気が通じ、ほっとしました。
20日(日)には、水道も通じました。有り難かったです。

21日(月) 福島第一原発事故による放射性物質の影響で、茨城県知事がホウレン草の出荷停止を発表します。
22日(火) 葉物野菜の出荷が出来なくなったため、農作業の予定を変更し、ジャガ芋の定植を始めました。

4月4日(月) ジャガ芋の定植終了、作付面積2.5haです。
4月5日(火) 夏の主力野菜であるトマトの定植を開始
要ファームの有機認証を依頼している神奈川県横浜市の「同位体研究所」代表の塙さんが、直々に農場の施設内の土壌を採取し検査しています。これまでの結果は、作付けには全く問題ないと連絡をもらっていますから、少し後になりますが (検査依頼が多くて、報告書にまとめるのに時間がかかるそうです)、その詳しい内容も皆様にお知らせできると思います。塙さんに、「行政や農協に頼らないでこれまでやってきたが、これからも要ファームの責任で消費者に安全な野菜を届けたい。」というこちらの思いを話したところ、定期的に検査をして協力をすると言ってくれています。

4月11日(月) 八郷の松崎農場(要ファームの野菜一般出荷農家)で水田の種蒔きをしました。コシヒカリとココノエモチです。
茨城県内各地の水田土壌の放射性物質セシウムの値を測定した結果、水稲作付けには問題がないことになったからです。
要ファームの今年の「自然学校・消費者の体験田」は、残念ながら今後の農作業の関係で中止せざるを得なかったのですが……楽しみにされていた方々には、申し訳なく思っています。

4月17日(日) 15日に突然、山梨県一宮の久津間さんが事故でお亡くなりになり、お通夜に参列してきました。久津間さんとはポラン広場東京の発足以前から、共にPODに出荷していたことから、かれこれ30年以上に渡り、お付き合いをしてきた間柄です。ブドウ・桃の季節には必ず届けてくださり、今震災発生の際にもすぐに電話で、「がんばれよ、皆で応援するから」と伝えてくれました。突然の死去に言葉もなく、今は、どうぞやすらかにとご冥福をお祈りするばかりです。

4月18日(月) トマトの定植が終了しました。

この度の大震災に際して、消費者の多くの方々から激励と応援のメッセージをいただき、自然学校に参加されたお姿を思い浮かべながら、一つ一つ読ませていただきました。
又、販売を担ってくださる同士仲間達や全国のポラン広場東京の生産者からも心遣いと応援の声をかけていただき、支援の手を差し出され、こんなにも恵まれた環境に生きていることに心から感謝しております。
今、春を迎え、夏に向けて精進精一杯に野良仕事に向かいます。これからも末永く要ファームとお付き合いをお願いして、日々余震に揺さぶられる要ファームからの近況報告とさせていただきます。

2011年04月16日
福島県喜多方市 大和川酒造 佐藤 彌右衛門

福島の、そして東北のお酒を宜しくお願いいたします
大和川酒造店のお酒をご愛顧いただき有難うございます
また、地震のご心配をいただき感謝しております。会津喜多方市にある弊社では、幸いにして目立った被害はありません。しかしながら、県内のいわき市では今も断水が続いている為、安全な水が必要とされています
微力ながら、仕込水(飯豊山系の伏流水)を県内の被災地へと届ける支援を地域ぐるみで続けています
多くの方から「福島を応援する」とお声をかけていただき、本当にありがたいことです。これからも弊社のみならず、福島の、そして東北のお酒を宜しくお願いいたします

4月10日~13日、南相馬市鹿島に行って来ました

2011年04月14日
神奈川県横浜市 中村商店 蔵野浩伸

10日の朝、兄が会津の病院で亡くなりました。

今更原因など言うまでもありませんが、鹿島の病院にずっと居られたらこうも早く亡くなる事はなかったことは間違いなく、悔しさで一杯です。

息子の車で、途中蓮田SAで姉を拾い、福島・相馬と迂回して現地入り。
姉と共に、震災以来始めて、その住んでいた家を探しに行きました。
私のいとこ蔵野工業所が作った基礎、義兄と津波でなくなった義兄のいとこが作った土台がしっかりと残っていました。基礎と土台が残っていたのはこの家以外にはありませんでした。

海の方を見ると、数箇所かなりの幅で防波堤が破壊され、悠に100トンはありそうなその破片や塊が1キロほども先の田んぼに転がっていました。
漁船が幾隻も3キロ先の国道6号線の横で倒れていました。
姉の地域の本来の避難所だった小学校は1階の天井まで浸水した跡がありました。

ところどころでやっと自衛隊の捜索が始まっていました。

昨日、火葬場で兄を荼毘に付して居る間に、何台もの警察車両が身元不明の遺体を運び込んでいました。
喪服を着て葬儀を出しているのが本当に申し訳なかった。

船を沖に出すのが間に合わなくて、波にさらわれそうになりながらも助かったいとこは、「津波が松川大橋を超えるのを見た」と言っていました。

福島第一原発の建屋の中で作業していて地震に遭った孫受け作業員のいとこは「テレビで恐怖を語る元作業員が何者なのかまったく分からない。水に足が浸かって被曝なんて、孫受けの作業員だって絶対に起こりえないこと、あいつらは何なんだろう。」
使用済み燃料を各建屋で保管していますが。冷却安定後の燃料棒をまとめて保管している場所があり、その数は数万本、まだまだ公表されない不安要素が山積しているようです(※)。
それにしても以前の循環冷却がいつになったら回復させることが出来るのか? 直ると信じている人は殆ど居ないようです。

昨日の帰り、飯館村を通ってきました。
合併もせず、独力で農業で生きてきた村。
見た目は今もとてもきれいなのに本当に気の毒に思いました。

辛いですけど、頑張るひとを助けられるウルトラマンで居たいとつくづく思いました。


2011/04/11 蔵野さん撮影
南相馬市鹿島区 第一原発から32km

(※)ポラン広場東京事務局の参考追記

■2011/3/18 [読売新聞] 使用済み燃料 共用プールにあと6400本

福島第一原発には、6基ある原子炉建屋の使用済み燃料プールとは別に、約6400本もの使用済み燃料(燃料集合体 注:60本の燃料棒を束ねたもの)を貯蔵した共用プールがあり、津波で冷却装置が故障したまま、水温や水位の変化を把握できなくなっていることが、17日わかった。
すでに数年以上かけて冷却されているため、ただちに爆発する危険は少ないとみられるが、政府と東電でつくる福島原発事故対策統合本部は、共用プールへの対応も迫られている。
共用プールは、4号機の西約50mの建物内にあり、縦29m、横12m、深さ11m。使用済み燃料(燃料集合体)を6840本収容できる。現在、1~6号機の原子炉建屋のプールに保管されている燃料集合体の1.4倍にあたる6375本が貯蔵されている。
東電によると、10日までは水温が30度に保たれていたが、11日の地震後、水温や水位も測定できなくなった。プールへの給水は自動的に行われているとみられるが、その水から熱をとるための冷却システムは故障しており、十分な冷却はできていないとみられる。爆発事故を起こした3号機、4号機に近いため周囲の放射線量が多く、状況を把握できていないという。

■原子力安全・保安院は、18日午前6時現在、福島第一原発の使用済み燃料共用プールがほぼ満水であることを確認したと発表。
その後、共用プールに関する報道はないようです。

2011年04月11
福島県 三陸水産(有) 雨澤進

この度は、大震災復興のために、心暖まるご支援を賜り、心より厚く御礼申し上げます
皆様から頂きました義援金は、三陸地方の陸前高田市、南三陸町、石巻市や福島県いわき市常磐沖の漁場からの新鮮な魚介類を扱ってきた、当社と志を共にする漁民の皆さんの復興のために有り難く使わせて頂きます。
これらの漁民の皆さんは、家族・仲間・家・加工場と設備・船・漁場・老後や将来の夢・日々の生活等、すべてを大津波によって失ってしまいました。また、三陸わかめ等の生産者をはじめ、タラコ・タラコ明太子の生産者とは未だ連絡が取れず、仲間の安否を案じているところです…
皆様からのご支援が、このような状況から「もう一度、立ち上がろう」と頑張り合う「復興を成し遂げる」弾みになるものと存じます。各地の漁民(生産者)を代表し、心より厚く御礼申し上げます。

大津波で、一般でも50%、60%の漁民が行方不明といわれる危機的状況に陥り、三陸のわかめは今期の出荷はなくなり、カキ、ホタテ、ホヤなどは水揚げまで2~4年程度要するため、数年にわたり途切れると懸念されています。毎年、秋刀魚漁に使用する大型船も津波により横転し、多数の船にも影響が出ると推測されます。
三陸水産の地元いわき市では、久之浜漁港も被害を受け、干物等の加工場や冷凍庫、並びに倉庫で保管していた原料や商品、その他の機械等が流され、生産者の家屋も流失し、市場等施設も再起不能状態となっています。
当社でも、敷地内の地割れや断水、入口の橋の隆起、社屋の地割れ、社員の車の流失、家屋の破損等の被害を受け、また、運送会社の営業停止などで、荷物の発送ができないなど、さまざまな困難に見舞われています。

私共では数年にわたり、原子力発電所の建設反対とその危険性を訴えて参りましたが、今回の大震災により、それが現実のものとなってしまい、とても残念でなりません。原発事故では、当社の近隣までその危険がせまり、半月の間、避難という事態になりました。三陸水産では「きれいな海、安心して食べられる海産物を」という社是の下、全社員一丸となって、原発反対を訴えてきただけに……放射性物質を海に垂れ流し続け、魚や海産物、その他の食べ物を汚染し、生ある動植物等にやがてどんな影響を及ぼすかは計り知れない。ほんとうに残念です。現在、懸命な事故処理作業を続けていますが、被害をこれ以上拡大させない為にも一刻も早く事態を収束させることが何よりも重要です。

厳しい状況が続いていますが、原発事故が起きる前に製造・保管しておいた在庫があるものに限りまして、営業を再開致します。皆様には、長らくご不便をお掛けしていますが、これらは、安心してお召し上がり頂けるものですので、今後とも変わらぬご愛顧を賜りますように、心よりお願い申し上げます。
又、今後の三陸水産の基本を以下の通りさせて頂きますので、ご理解を頂けますようにお願い申し上げます。

  1. 原発事故後の魚介類は一切お届け致しません
  2. (新)三陸わかめ等の海草類、紅鮭等は震災前に確保した商品をお届けします
  3. 今後の新しい商品は、汚染のない海からの大自然からの贈り物をお届けします
  4. 加工に使う水は、ミネラルウォーター使用と致します
  5. その他、皆様からのご希望の商品を模索し、安心で、安全な海産物の提供に徹します

今後の三陸や各地の復興を成し遂げるには、何年にも渡ると言われています。
これから細々と生産する海産物を、皆様が、「利用することで漁民の励みと生活が出来るように」と、引き続きご支援を頂けるならば幸いです。必ずや、三陸の自然の豊かさ・きれいな海がよみがえり、この復興のご支援に恩返しが出来るものと確信しています。重ねて感謝申し上げます。

フクシマ原発事故と今後を思う

2011年04月01日
神奈川県川崎市 オフィス和蔵 片山 雄介

安全性については世界的にも定評があったとされる日本の原子力発電所に、甚大な事故が発生した。この様な大きな事故が起きる事などは先ず、有り得ないとしてきた専門家たちのそうした思考に、はたして驕(おご)りはなかったのか。

それはともかく、今、我々に断言できることは人智を遥かに超越した大自然の営みの中では「原発は絶対に安全である」という神話は正に砕け散ったということだ。
今回の福島第一原発事故の教訓は日本各地に存在する原発にも、こうした大きなリスクの可能性があることを明確に示した。そして、今後それら原発が絶対安全であるとは最早、誰も言い切れなくなったのではないか。

ヒロシマ・ナガサキに投下された原子爆弾と同様に、この福島第一原発事故は人類全体の問題とし、21世紀の社会のあり方、人間の生き方を考えていかねばならない大きな試練として、受け止めなければならない。福島第一原発は、1971年に当時の最高の技術を駆使して建設され運転が開始した。
そして、そこで作り出されたエネルギーは東京電力のエネルギーとしてそのほとんどが、東北地方から程遠く離れた首都圏で利用されてきたのである。つまりこの間、首都圏で生きてきた人々は原発建設に異議を唱えたか、否かに係わらずそのエネルギーの恩恵を頂き、快適な文明生活を送ってきたのである。私自身も原発には反対と思いつつも、こうした恩恵に浸って生活をしてきたのだ。
ならば今更、放射性物質の事でうろたえるのは止めよう。
そして日本政府や、東電だけの責任だとするのも止めようと思う。それは福島県民が多大な被害を負った原発を甘受して都市生活をしてきた私自身にも責任はあるのだから。

ところで私事になるのだが、私は関東以北の人々や企業とは昔からとても深いご縁がある。
とりわけ福島県とは、いろいろな意味で太い繋がりの中で生きてきた。それは二十歳の学生時代に遡るのだが、私はリュックを背負いある禅宗の僧侶の足跡を調べる為に、茨城・栃木・福島のお寺巡りをすることから始まった。この一週間ほどの行脚の旅こそが、今日の私の福島というステージ作りのきっかけとなったのである。行脚の結果として、最初に出会った人物が福島県は熱塩加納村の大竹利一さんであった。
利一さんは現在、高級料理酒「蔵の素」(※1) の原料米の生産をして頂いている「蔵の素会代表」大竹久雄さん(熱塩加納町) の叔父貴にあたり、私より十年程先輩で私を弟のように可愛がってくれた。
しかし残念ながら彼は、私に思いを託すようにして46才の若さで亡くなってしまった。
彼は久雄さんだけでなく、喜多方市の(資)大和川酒造店さん・会津若松市の末廣酒造(株)さん・平出油屋さん 更には、自然酒「自然郷」で有名な矢吹町の(名)大木代吉本店さんとも、私に間合いを詰める役目を果たしてくれた。
また、NHKのテレビ放送で平成の宮澤賢治と称された、熱塩加納村(現在・町)の小林芳正さんとの縁もつくってくれたのである。

そうしたご縁ばかりでなく福島は、私がこの事業を本格的に取り組んでいくきっかけを与えてくれた大切な蔵元がある。
当時二十六歳の私は、“自然そして醸造”をキーワードにし、自然酒の本家本元である福島県は郡山市の(有)仁井田本家さんが醸し出す、「鳳金宝自然酒」を取り扱わせて頂いたことから、醸成され、自然酒という新たなジャンルを業界に旗揚げする事ができたのである。
生まれて始めて訪ねた酒蔵も、山の中腹にある城郭のような仁井田本家のお蔵であった。
今でも、何も知らなかった若い私を育ててくださった業界の先代達への恩は決して忘れない。

私は二十八歳の時に先代の父を亡くした。父は亡くなる一週間前、岩手県の酒蔵を訪ね、私に対する最後のお膳立てをしてこの世を去った。
その蔵元が、今回の大震災でほぼ全壊消滅してしまった陸前高田市の酔仙酒造(株)さんである。
私は当時、良質で安全な食品を共同購入していた消費者からの強い要望で、原材料の確かな熟成した“本格米焼酎”の商品化をする必要性に迫られていた。その商品を快く製品化して下さったのが酔仙酒造(株)さん。
「陸前」と命名されたその米焼酎は絶対的な支持を頂き、私には忘れられない第一号のブランド作りである。

そして今回最も被害(死者・行方不明者)が多いとされる宮城県には、私の北海道時代の友人がいる。木曽馬や道産子を私財を投げ売って繁殖させてきた、荒井文廣さんだ。
何故、在来馬を残していくのか、人間が大地に生きるとは何か、“農と人と馬”をキーワードとして生きてきた彼とは、日本の将来をどうして行くのか、様々なことを考え、語り合い、それぞれの生き方を貫いてきた。今、彼は仙台の被災地で多くの人に頼られ活動をしている。

この様に私の今日は、東北とは切っても切り離すことができない。だからこそ、この未曾有の大震災と原発事故とはこれからもずっと向き合って生きていこうと思うのだ。
そしてそれは、それこそ私のライフワークとして大切にしていきたい。
現状のみならず、これからの数十年間の日本の多大な被害を考えると最早、政府や東電の力だけでは全く解決は出来まい。このような惨事が二度と起こらぬようにする為には、国民一人一人の意識改革と行動が問われるのではないだろうか。

“自然そして醸造”からはじまり、“日本の伝統的な農と醸造文化を21世紀に継承”、“生命おどる発酵と醸造”そして“発酵と醸造の片山”と唱えてきた会社として積み重ねてきた経験とノウハウがある。そうした資産を日々の事業を通して生かし続けていくことが、私共の役割である。大震災によって大きなダメージを受けながらも再建を試みようとする人たち、或いは、これから避けては通れない放射性物質の風評を受ける人々、そして放射性物質にさらされながら生きなければならない人たち。私はこれから10年20年に亘り皆と共に歩み、こうした厳しい状況の中、自分の役割を果たしながら生き抜いていくことを誓う。

まず第一に、私自身が今できる、やらなければならないこと。
それは原爆で正に地獄の苦しみを経験したヒロシマ・ナガサキの人々が、数十年の後に山の緑や、小川のせせらぎを取り戻してきたその歴史に学ぶことである。
福島原発事故もその教訓に学び、必ずや再生し、より住み良い自然環境を取り戻す事が出来るのだと信じて歩み出すことである。

第二に、私自身が今できる、やらなければならないこと。
日本の先人たちの知恵に学ぶことである。特に日本の伝統的な食文化を大切に日常に取り込んでいくことだ。玄米食・味噌汁に始まり発酵醸造食品をベースとした食生活の重要性を再認識し、先ずは、私自身が健康であり、タフな精神をつくり上げることである。(※2)
そして、そうした日々の食べ物がいかに放射線を跳ね除け、 我々の生命・未来の生命を救ってくれるのかを、一人でも多くの人たちに体を通して知ってもらうことである。
   
第三には「生命力」とは何かを説いて回ることである。
それには日々私が“生命力”のあるものを口にし、今まで以上に生き生き、生きることから始める。無農薬栽培・有機栽培というレッテル依存ではなく、生命のあるもの、生命力のあるものについて考える。それは先ず、生命力のある稲を育て、そうした稲その物が放射性物質を排泄させる力があり、更には、それを食べた人間も、その排泄力を稲(玄米)からいただくことが出来うることを証明していくことだ。
(これは稲だけの話ではなく、あらゆる植物などに通ずる)
私は、この三十年間発酵・醸造食品を販売しながらその素晴らしさを常に説いてきた。
それを更に誰にでも分かり易く説き、日常の中に当たり前に取り込んでもらう事が、私の仕事であると同時に、これからの片山の大切な事業と位置付ける。

第四には、大自然は多くの人々の生命を呑み込んでしまったが、ヒロシマ・ナガサキがそうであったように、その大自然は人類の驕りから作り出してしまった、自然界には存在し得ない、誠に有害な物質をも、永い営みの中で受入れ、元の状態にゆり戻すとてつもなく大きな生命力を持っている。(※3)
そうした大自然に生きづく八百万の神々に感謝してきた先人たちの精神を取り戻していくことである。そしてその精神の中に21世紀の新しい社会のあり方のヒントを見いだせる。

第五には、こうした日々口にするものを先ずは、しっかり噛み締め味わい、体を通して生命は必ず再生していくという事を学び (※4) 、 一歩ずつ自然の営みと共に歩み復興していく。
そしてヒロシマ、ナガサキに続いたフクシマのこうした営みと再生を世界に発信し、人類の21世紀におけるライフスタイルを世界の人たちが考え直し、次世代に未来ある地球をバトンタッチ出来るように私は願い、祈り続けていく。

[注 釈]

(※1)大木代吉本店が開発した料理酒[蔵の素]は山廃仕込という手法で醸される。蔵の中の微生物を上手に利用した手法により、多種多様な有効成分が含有される。

(※2)エドワード・ハウエル 著:「医者も知らない酵素の力」(中央アート出版)
桜沢 如一 著:「無双原理・易」(サンマーク出版 岡田 定三 編集・解説)
秋月 辰一郎 著:「体質と食物」((株)クリエー出版)
「死の同心円 ナガサキ被爆医師の記録」(ナガサキ文献社)
「ナガサキ原爆記 被爆医師の証言」(ナガサキ文献社) 

■人間(動物)の健康は口から肛門までの消化器官が、本来の機能をどれだけ発揮しているかによって決定されると言っても過言ではない。それは、福岡伸一著「生命と食」でも述べられているように、その人の体質や健康度は、どんな食生活をしてきたかで決定される。特に食べ物に恵まれた日本では、米を主食とし発酵醸造食品をベースに、季節の食材を大切に食すことによって健康は保たれる。発酵醸造食品は、伝統的な手法によってしっかり造られた物と、速醸法によって短期間に造られた物とは、健康を維持するという意味では雲泥の差があると考えてよい。というのも発酵醸造食品は、麹カビや酵母そして細菌 (乳酸菌や納豆菌・酢酸菌など) の働きによって醸されるのであるから、如何にそうした有効な微生物を、のびのびと時間をかけて働か(発酵さ)せ、いかに熟成するかが重要なのである。彼らが、たくさん働いてくれた環境には様々な酵素やビタミンをはじめ、乳酸やクエン酸・酢酸など植物そのものには、本来含有していない人体に必要不可欠な栄養源が多種多様に生成されるのである。こうした成分で構成された食べ物は、化学的な薬やサプリメントとは違い即効性はない。しかし、日々食べ続けることにより健全な体を作りあげていくのである。そして、できれば先人達がそうしてきたように、酵母や有効な細菌が生き、酵素が十分含有されている自然な味噌や醤油を日々食していきたいものである。

(※3) 高橋 丈夫 著:「生命農法」((株)三五館 出版)・・・・原子転換説との出会い・他

■自然界に生息するバクテリアは、多種多様である。
バクテリアの中には人間が作り出したプラスチック、重金属、そしてベトナム戦争で使われた枯れ葉剤にも含まれていた、猛毒化学物質であるダイオキシンをも分解し、その毒性を消してしまうものも存在する。
因みに、2003年にはマサチューセツ大学の研究者らのチームによって、海底の泥の中に生息するバクテリアが、無酸素状態の中でブドウ糖をもとにし、電気を起こすことを発見した。こうして細菌(バクテリア)・酵母・カビ・原生動物など様々な、地球上に存在する微生物が大自然の環境を浄化していく限りないパワーを発揮している。

(※4)福岡 伸一 著: 「生命と食」((株)岩波書店 出版)、「動的平衡」((株)木楽舎)

22011年03月28日
青森県田子町 日澤一雄

3月11日の地震直後は停電の為作業が出来なく大変苦労しました。東北地方では甚大な被害が発生し、青森でも物流の混乱もあり鶏の餌などの資材が底をつくのでは? との心配も周囲の方々に支えられなんとかのりきれそうです
一番心配していた鶏も落ち着きをとり戻し、いつものように産卵しているように思います。常に、鶏の健康を第一に考え、化学飼料や抗生物質等は与えず、自然飼料に荏胡麻や田子産のにんにく、ヨモギ、桑の葉、海藻などを食べさせています。水も水道水は使わず、山奥の湧水を鶏舎まで引き与えています
春は鶏がたくさん卵を産む季節です。どうぞこれからも変らず、たくさん卵をお召し上がりください

2011年03月22日
茨城県・村上きのこ園

小屋の中はメチャクチャでなかなか元気も戻らないのですが、温かいお見舞いのお言葉に勇気づけられ、片付けもそこそこに出荷再開を決断しました。これからも、よろしくお願いいたします

2011年03月19日
神奈川県横浜市 中村商店 蔵野浩伸

3月11日午後2時50分頃、横浜市金沢区の会社の2階事務所にてかつて経験のない振り回されるような強い揺れを感じる。机の上の幾つかの細かい物が倒れはしたが、工場の方も特に被害はなかった。只事ではない!ネットとテレビを皆と注視、暫くすると宮城で起きている大津波の映像が流れる。なんだこりゃ!
すぐに自宅に帰り、姉と兄への連絡を試みる。固定電話も携帯も全くつながらない、仕方が無いので其々の固定電話に伝言ダイヤルを入れる。6時間以上掛け続けている最中、浦和に住む甥(姉の息子)から姉とメール連絡が取れて無事が確認出来た旨のメール。その後相馬市の従姉にもメールが通じて「取り敢えずは無事だけど殆ど誰とも連絡を取り合う事が出来ない」との事。
私は、福島県相馬郡鹿島町(現 南相馬市鹿島区)の生まれ、太平洋岸の山・川・海、風光明美で多彩な食べ物に恵まれた町で18歳まで暮らした。
地震・津波の時、姉は漁港そばの自宅、兄は町の鹿島厚生病院に入院していた。
夜遅くに、浦和の甥と電話が繋がり、朝になったら姉の所に夫婦で行くと言う。原発がおかしいと云う情報が流れ始めたので「路面に注意し、出来るだけ原発を大きく迂回して行ってくれ」と親族の安否の確認を委ねた。
12日19時前、姉からの電話。兄が入院している病院からだった。余りの嬉しさで言葉にならなかった。
姉は津波警報を聞いてすぐに隣の親戚のおじさんに「逃げよう」と声を掛けたが、「ここは大丈夫だ」、さらに隣のおばぁちゃんは「瓦が飛んだりしたのを片付ける」。結局姉は、昨年末に亡くなった主人の位牌を持つ余裕もなく、飼い犬の鎖を外してやって、一人車で家を離れた。途中、前の車が止まって後ろを振り返ったので姉も振り返った、海の空が真っ暗になったのを見て、本来の避難場所を通り過ぎさらに先の小高い丘にある「さくらホール」にたどり着く事が出来た。家から4キロ程のこの場所は奇しくも姉が名付けた施設だった。
津波は海岸から3キロ程の国道6号線で止まった。姉の所は勿論、海岸沿いの集落のすべては痕跡すらなくなった。真野川沿いの集落も殆ど消失した。広大な田園は海になった。兄の娘家族が住む私の実家は、海岸から1.8kmほどだが、川から離れた尾根伝いの集落で、津波は届かず無事だった。
被災して1週間目、姉は浦和、姉の娘家族は青森、兄は会津坂下の病院(喜多方市の隣)、兄の息子・娘たちは其々の家族共々福島市、その他の大勢の親族も遠く離れたあちらこちらの親戚や避難場所にいる。
南相馬市=放射能汚染とのイメージが付いてしまったが、鹿島は殆ど平常値。南相馬市と言うだけで物資のトラックが来なくなり食料などが無くなって、仕方なく避難した人が多い。避難場所も県内だけでは足りず、受け入れ可能な他の自治体にお世話になっている。県内がすべて危ないという認識で県外に行った人は殆どいないだろう。北隣りの相馬市はもう復興に向けて動き出しているというのに遺体の捜索すら進んでいない。幸いにも姉の隣の親戚のおじさんは死亡が確認され、親族皆で「良かったぁ!」と。
実家に住んでいた姪の亭主は大熊町の生まれで高校卒業後から双子の兄と共に第一原発で働いて20年ほど。地震当日は非番、連絡が取れなくなった仲間たちが心配で現地に行ったが、帰らされての待機。17日に召集が掛かり、送電に関わる仕事に向かった。メルトダウンの恐怖!無い訳がない、死ぬ覚悟が・・。
浦和の甥は、姉を連れて来てからは、被災地にある二つの工場の従業員の雇用を継続させるために新たな事業計画の為の研究をし、奔走している。燃料が無く車が使えず、計画停電のために夜7時頃には退社、幾分焦燥気味だ。
さゆり米の生産地は福島県喜多方市熱塩加納町、会津の西北端で日本海の方が近い位置だ。私の兄は南相馬市の鹿島から会津の病院に避難した。会津の放射線量はほぼ平常値で推移、安全な所だ。米は少々の水に耐えうる3重の紙袋に入れられ、低温倉庫で保管されている。
報道と言うのは、有難くもあり怖くもある。特に非常時に於いては、その瞬間・その特定の場所・特定の条件で起きたことが報道されるが、それらは現実のほんの一部。地名に関しても余りにも不親切、「福島」とは福島の何処?「南相馬市」とは南相馬の何区?正確な表現をしないために風評被害が起きるのだ。現実の県境や町の境には線が引いてある訳でもなく壁で遮断されている訳でもない。風評被害の為に食料を断たれて会津坂下の病院に避難した兄と、死ぬ覚悟で第一原発で作業している親族を持つ私にとって「さゆり米の放射能汚染は?」の問い合わせは余りに辛い。
私は130歳まで生きる予定はないから少々の事は気にしないが、7歳の孫娘のことはしっかり守ってやろうと思う。
被災者の親族として応援頂いている方々に心から感謝申し上げます。

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