イベント情報

オーガニック&ナチュラル ポランの収穫祭 2015 - 集会/交流会 -

ポラン広場東京会員集会 10/31(土) 1Fラウンジにて

16:45~18:30
[神足]
NPOポラン広場東京およびPOD(株)ポラン オーガニックフーズ デリバリの代表をつとめる神足です
最初にこの間に進めてきた「ポランブランディング」について説明をし、次に小講演として少し語っていただき、そこから参加者全員で話題を展開したいと思います
◇組織の呼称表現について
NPO法人のポラン広場東京と流通事業の(株)ポラン オーガニックフーズ デリバリとの両輪で進んでいますが、両組織を総称して「ポラン」といいますので、よろしくご理解を願います
◇昨年2014年5月より、「ポランブランディング」を進めてきました
1970年代後半から「地球の家を保つために」をテーマに「有機無農薬・反農薬」(当時からこのように明記して)の流通・販売をスタートさせ、84年に任意団体「ポラン広場」を設立、30年以上を経て今日に到っています。流通事業は来週の11月3日文化の日で35周年になります
2011年3.11という大変な体験をしました。被災地の方はもちろんのこと、全国のみなさんも心を痛められました。そして、福島第1原発事故による放射性物質拡散の悪影響で1年、2年、3年…これは放射性物質ですから慎重に進めなければいけないとこの間、ポランはその対策で忙殺されました。3年…を経過して、この先の未来を考えなければならないという思いに駆られました
「地球の家を保つために」今ここでも解決すべき課題や実現すべき仕事がたくさんあります。2000年から始まった有機JAS認証制度により「オーガニック」というものが社会一般に認知され始めました。ただ、「オーガニック」の原点や原則がすこしなおざりにされていないでしょうか。実際に輸入有機食品がかなり多いですし、産業としては当然でしょうが、高度に加工された有機食品などもあります。これは矛盾です。社会的な「オーガニック」のものの認知に加えて、その真の意味がもっと理解された上で生産・製造・流通販売され、それが生活/暮らしに取り込まれていくようになればよいと思います
考え解決すべき課題や仕事の内容は多岐にわたり、問題は深いのですが、それでも真のオーガニックな生産と製造の様式や流通販売と生活/暮らしのあり方を問い続けることが必要だと思います
次に、経済合理主義、高度産業社会に抗って「顔が見える生産製造・流通販売・生活暮らし」を保ち持続することを考えます。ここで「顔が見える」という言葉を初めて使っています。ポランは今まで「顔が見える」という表現はしたことがありません、その理由は……
1971年に日本有機農業研究会が農産物の流通販売を否定して「顔が見える」産直をしました。それは、生産者から消費者に届く野菜には対価はつけずに(野菜ひとつの値段はなく)「お礼」をするという産直様式(※)です
※産消提携:農業者と消費者とが農産物の取引に係る事前契約(提携)を行い、その契約に基づき農産物を相対で取引する仕組みをいう
生産者には顔があり名が有る、顔が名が有ることが「有名」です。市場経済では生産者の顔や名を消し金銭で売買されます、ですから「無名」です。このことは何も検証されずに今一般流通でも「顔が見える~」とうたい、プライスカードには顔写真も貼っていますね、商売ですから
ポランはこれまで「顔が見える」という表現をしてきませんでした、金銭を介在していますから。ですが今まで、私たちは実際には顔が見える関係を築いてきたわけです。ここに今日参加されている生産製造者の方とポランとは「顔が見える」関係度が100%です。あえてそれを消費者や社会に対して表現していなかっただけです。ですから3.11以降は、「顔が見える」という表現を積極的にしようと考えました
よい言葉があります。「本当に必要なものは消費されたりしない」。だったら消費/消費者という言葉はもうやめようかなと(笑)。消費/消費者はどこかに独立してあるものではなく社会の連環にあるにすぎない。ですからあえて「生活/暮らし」と置き換えました
◇キーワード
「身土不二(しんどふに)」は、仏教用語で、「身」(今までの行為)と「土」(身がよりどころにしている環境)は切り離せないという意味
「身土不二(しんどふじ)」は、石塚左玄が食養を広めるための書物を書く際に「しんどふに」を読み換えて「しんどふじ」と命名したもの。「自然環境に適合した生活をすることで心身もまた環境に調和する」という意味
1896年に石塚左玄が「食養」という言葉を始めて使用し、その後に桜沢が世に広げて、後に「マクロビオティック」とも称されたわけです。マクロビというのは今に始まったことではありません
蕎麦打ちの名人友蕎子片倉康雄の言葉があります
食はすべてそのもとをあきらかにし / 調理をあやまたず / そこのうことなければ / 味はいすぐれ / からだを養い / 病をもいやし / よく人をつくる
このままポランの肥しとしたいくらい完璧です(笑)
このようにかなり昔から日本では「食養」ということが考えられていました
食養(初出:1896) / Organic(1930~40年代) / フェアトレード(第2次大戦後、そして1960年代) / 有機農業・天地有機(1971) / 持続可能な社会(1980) / 地域生産地域消費=地産地消(1981) / スローフード(1986) / バーチャルウォーター(1990年代初頭) / フードマイル(1994)
このように(他にもあるかも知れませんが)、時代を追って言葉ができ、言葉があるということは社会がこのようにあるということです。これらのキーワードが示す内容を織り込み、未来のオーガニックへ進めたいと思います
持続可能な地域社会にひろがりのある、魂が込められた・魂がこもったオーガニックの仕事とそれを基盤にした生活/暮らしを実現することが大切だと思っています
これらのことを2013年11月から思案しはじめ、14年5月ポラン広場東京総会において「art-The Polan 2014.05.24」ポランブランディングが方向付けされてスタート、秋には商品展開を開始し、その後は様々に進展をしました。本日はその中間報告です。これは今後も継続していきます。以上がポランブランディングの概略説明です
◇次は稲澤美穂子さんに話してもらいます
(会場の)壁に貼られている絵の背景になっているのが「art-The Polan」です
稲澤さんがデザインした包装のポラーノ【ミルク/ビターチョコレート】も手に取ってご覧ください
[稲澤美穂子さん] ポランブランディングの説明
1年半前にポランブランディングデザインを始めるにあたって「魂のこもった」ものにしてほしいという依頼がありました。私の中で精一杯の「魂のこもった」を考え、微生物や植物動物とか岩や森とか生産者の方とか宇宙とかこれまでの歴史など全てを感じ取ったものを1枚の絵にしました
この絵をベースに色々な商品パッケージに展開しています。「ポランのことを伝える」ことを心がけたデザインにしています。デザインをしたから商品の値段が高くなったでは意味がないので、ポランの商品がより良くより多く知られ広めることが基本だと考えています
「art-The Polan」に関する周囲からの評価は、インパクトがある・コンセプトがしっかりしている・いわゆるオーガニックっぽくない・パッケージの展開についてはもっと他のやり方があるのでは……などとありました
現在少し抑え目にしているので、無理せずにゆっくりと展開していきたいと思っています
ポスターについて
キャッチコピーにある「すごい」という言葉を初めて聞いたとき、漠然としていて意味がよく分かりませんでした。次の段階として、どんなに「すごい」のか、具体的な「すごい」を嘘ではなくちゃんと伝えていきたい
先日、口コミサイトでポランを調べたら批判はほとんどありませんでした。「内容はいいけど高いという印象」というコメントがありました。これを「内容が良いから高い」という風に伝えていける物でないといけないなと思いました。また、ランキングを調べたらポランはランク外でした。つまり世の中には伝わっていなくてあまり知られていないということです。知られていないということは可能性を秘めているということ。何を伝えるのかというと、理念とかではなく利用者にとって具体的に知りたいもの、ポランブランディングの定義というものがあってもいいのかなと思いました
カレンダーについて
今回の五穀カレンダー制作にあたり、青森の三上さんと岩手の小田川さんの写真をたくさん預かりました。写真を見ていて、ポランの生産者ならではのエピソードがあるのではないか?今回は間に合いませんでしたが、そのようなことを盛り込めると消費者によりよくポランのことを伝えていけるのではないかと思いました。生産者にとっては日常的なことであっても、私たちにとっては非常に新鮮なこともあります。生産者のしっかりとした歴史とか思いとか理念とか、そういうことを伝えていただけるといいなと思います
明日のワークショップについて
ワークショップでは大きな絵を描きます。コンセプトは、「今この瞬間が138億年の最先端。これからの未来へつなげよう」です。上手いとか下手とかではなく誰でも参加してもらおうと思っています。生産者の方の築いてきたもの・作ってきたものを一人一枚ずつ描いていただければと思っています
[神足] ブランディングの補足説明
これまでポランは、有機農業の主役は生産製造者であり、有機食品を利用する消費者が大切であると考え、産物の出口としての流通・販売事業の色を付けずに無色透明でやってきました。事業の理念と目的を明示してやってきましたが、それらを具体的に社会に向けて表現することがあまり上手ではありませんでした
3.11以降から特に考えることとして、現行の有機JAS認証制度とJAS有機規格には納得ができないところがあります。この制度や規格以上にポランは生活/暮らしをよりよい形に持っていくための対案としての魂のあるオーガニックを進めてきたつもりです。ですから、ポランの関係農家はこの制度と規格基準を簡単にクリアしました。ですが今、これからの未来に向けてのオーガニックの道を歩んでいるかと心配します。少し、そのダイナミズムが失われていないでしょうか。ポランは有機生産物の出口の流通・販売を無色透明でやってきましたが、これからは社会に向けて表現することにも努力します。製造・生産者と生活/暮らし、そして真の「オーガニック&ナチュラル」というメッセージ性を込めるということです。まだまだ日にちが浅いので稚拙ですが、進めているのはこのようなことです
30年前、「オーガニック」は一部のひとを除いて社会的には認知されていませんでした。現在、特に都市部では「オーガニック」は日常化しつつあります。しかし有機農産物が市場流通量に占める割合は0.25%です。それでも、0と1では大きな違い、無が有になったのですから。今後は有機農業とその産物の有り方を問うということです
「オーガニック&ナチュラル」というのは消費者に分かりやすくするための方便です。「オーガニック&ナチュラル」は有機野菜と自然食品を連想するでしょう。看板にも大きく「有機野菜と自然食品の店」としました。ここには有機農業と自然農業を織り込んでいます。有機農業はある程度確立されました。有機農業というのは地域循環様式の農業であり、地域の中で完結するというのが一つの理想です。化石燃料依存を克服する社会全体の動きとも連帯連動する必要があります。認証有機に適合すれば地球の裏側からでも輸入されます。原油価格が上がると農業の生産コストが上がります、自給されていないのですから。これらは有機JAS認証制度の矛盾と限界です。一方で長い年月を自然農業をしている方がいます。原油価格が上がって農業資材などが高騰してもまったく影響を受けません、外部から最小限度しか購入していないからです。それが理想的なオーガニックの様式です。その方は自然農法でありながら有機認証も取得されています。このように両方を折り込んだのが「オーガニック&ナチュラル」です。これからは積極的に「有機・自然農業」と表記表現していきたいと考えています
◇小講演~地域に根ざした生産・製造・暮らしのあり方について~
長年、ポランとつながりがある方々にお話を伺います
[奈良県 王隠堂農園 王隠堂誠海さん]
ポランとのつながりは34~5年前からです。互いに家に泊まって何日も話をした時代の人たちです。紀伊半島は梅か柿かみかん。その中でも王隠堂農園は梅を重点的にやっていいます。園地は(関係者全員で)130ヘクタールです。僕らの住んでいる地域は、増田さんという方の出された『地方消滅 - 東京一極集中が招く人口急減』中公新書 (2014)に書かれている「消滅していく村ベスト20」の中に3つくらい入っている地帯です。合併して五條市になっているが、20軒くらいの集落で絵に描いたような過疎の地域。行政では、学校の数を約半分くらいにしなくては維持できないという状況です。さらに高齢化も進み、農業をどういう風にやっていくかという問題が目の前にある地域なんです
有機のものやそうでないもの、いろんな形があるが、ひとつにまとまってもう一度地域を再生しないと、我々も有機の農業をやっていけるか分からないことになってくるのではないかという不安があります
昨年度は国から3億円の補助金が出て、村の周囲に3kmにわたって網を張りました。僕らが檻の中にいるのか、猪や猿や鹿が檻の中に入っているのか……住民よりも害獣の方が多いのです。3年前から害獣被害の整備費用が出て、月に1度、五條市のひとつひとつの山を害獣退治しています
10年くらい前に、自分たちのビジョンをつくった時、10年後に最低15%最大20%地域社会が減退すると考えました。その際、次の後継をどうするかアンケートを仲間内でとりました。センターの近くに野球で有名な智弁学園があります。野球だけでなく勉強も頑張っています。地域の子どもたちは勉強していい大学に行ったら、帰って来なくなりました。これは地域の大きな損失です。若い人たちが帰ってこない、でも継いでもらいたい、継いでいかなくてはならない。次の社会をどう作っていくか、自分たちがもう一度新たな社会づくりをしていかなくてはならないのではと考えています
高校が次々と廃校になっているのですが、廃校にしないで農業や林業の後継者をつくる専門の高校にしてもらえるように取り組んでいます。全国から幅を広げて募集してもらえないか、都市の人たちがきて停留して、次の農業・林業、そういう人たちも入れてひとつの地域枠をつくっていくのが必要ではないかと思います。次の世代の農業・林業をやる人たちを育てることが有機農業につながるか分かりませんが……若い人たちは有機農業をやりたい人と近代農業をやりたい人のどちらかに分かれるように思います。どっちがいいとかではなく、どっちが豊かで継続的に生活できるかはわからないが、王隠堂は有機を選びました。地域としてはそういう人たちも一緒になってひとつの地域づくりをしていかなければならないと思っています
ポランとは、自分たちのもっている自然の中の力を都市の食べる人にちゃんと伝えてもらい、食べていただくことができればよいと思っています。今後、消費と生産、流通のあり方は、もう一歩お互いに作り上げないといけないと思います。日本の土地でできたものをお互い消費者と生産者がやりとりできる場所、一緒にやろうという基盤もいるのではと思います
農業をちゃんとやっていくなら、今やっている人たちと共同事業とまでは言わないが、どこまで一緒にやれる基盤作りができるのか、地域の中でどういう風に連帯して一緒にやれる基盤が生産側もできるのか、次の世代にうまく渡せる形ができたら、消費の形も流通の形も生産の形も一緒にもてるのではないかと思います
私たちは紀伊半島のなかでそういう活動をしてきたが、もう一歩すすめて、西日本でそういう人たちと連帯して、それに意思ある消費側ともう一度向き合える環境を作り込むことが僕らの役割ではないかと思います
日本の中心が「東京」であるような、東京以外が別の国みたいな気がしています。「東京」というわけの分からない社会の中で、自分たちの思いや位置づけをちゃんと作ってもらえるなら、西日本の人たちが一緒にまとまってそういう関係性をとれることが将来の日本の農業のあり方だと思います
[岩手県 八木澤商店 河野和義さん]
八木澤商店は1807年から醸造業をはじめました。204年目に、たった6分で何もかもを失いました
私が子どものころは醸造業というのは常に社員が寝泊りして、夜中に麹を作る室(むろ)に入って手でかきまわす、社員というのは3食食べてお風呂に入って帰っていくものだと思っていました
東北で最初に醤油の工場を作り、そろそろ作りかえようかと思っていたところで津波がきました
醸造業は発酵業。発酵食品は世界の中で一番種類が多いのは日本です。発酵食品はまともに作って添加物を入れなければ健康食品だが、時間がかかりすぎる、「もっと長持ちさせろ」「色をよくしろ」「旨みをだせ」などと売り手が希望を出して、いつのまにか最高の発酵食品のいい意味のよさを売り手側の論理だけでやって、本物の発酵食品が少なくなってきたのが現在の日本です
陸前高田は岩手県の一番はじっこ、陸前高田と住田町と大船渡で気仙といいます。気仙には金山が多くあり、水のいいところで醸造業が盛んでした。それが全部まともな時間をかけ、ほとんど自分の畑や田んぼで獲れた農産物でやっていました
現在の日本の醤油の90数%は外国産の脱脂大豆を使い3~4ヶ月でつくるものがほとんど。本当の醤油というのは地元産の大豆と小麦を使い、時間をかけて自然発酵させ、1~2年かけるというのが当たり前だったのだが、そういう醤油を作ると一般の人からは変人扱いされた
売り手は「こだわっている」とか「究極」とか言うが、当たり前のことをやっているだけのこと。いちいち「何々を使っていません」「有機農業だ」など説明しなければ買ってもらえないのかという時代なんです。安心というのは顔が見えて、あいつが作るなら安心ということ、安全というのは数字があってそのくくりの中でだから安全です、というところがあると思います
震災後、もう一度原点にかえって命というのは人間の命だけではないというのが分かりました。震災で何もかも失いましたが、幸いだったことは震災の1ヶ月前に海洋微生物研究所にもろみを預けていたことです。4月になり、研究のために預けていた4kgのもろみが瓦礫の中から奇跡的に発見されたのです。
家訓は「人は宝、社員は家族同然に大切にする」。社員40人程ひとりも解雇せず、一緒に生きていこうと決めました。山菜・きのこ取りをして売ればいいと話していたが、放射性物質の影響でそれも駄目になりました。被災後直ぐ八木澤商店宛てに集まってきた物資を配っていました。最初は家のない人に配っていました。ところが、家のある人たちに物資がいかず疲弊してきていることを知り、渡すようにしました。すると、自らも家がなくなり何もない人が、家が残った人にこんなにするのかと言われ、泣いて喜ばれました。その頃は醸造業を廃業しようと思っていたが、町の物資をもらったひとたちが「さすが八木澤」と言ってくれました。何もかも失ったけど、「八木澤商店」という伝統は皆さん評価してくれていたんだと分かりました。それなら廃業せずに続けようと思いました。そのとき息子から、ボランティアではなく物資配りを八木澤商店の最初の仕事にしようと提案がありました。仕事にするということは給料を支払うことです。私に内緒で準備していたことを知り、ここで社長交代となりました。ハローワークからは、即全員解雇して失業保険の手続きをするように言われました。正社員以外のパート従業員は対象外となります。そんなことはできません。4月1日、1人も解雇せず、内定していた新入社員も入れることになりました。雇用がなかったら町は存続しません。だから皆が廃業していく中、八木澤商店がモデルケースとなっていき、2人でも3人でも雇用する会社が20・30社と増えたら、小さなろうそく1本かもしれない、それが20本・30本となったとき町を作り変えることができると思ったのです。そんな中、預けていたもろみが見つかりました。種もろみを発酵させていくときに、普通は乳酸菌や酵母菌を栄養素のかわりに植えつけるが、200年の蔵のもろみの生命力を信じて、一切の乳酸菌や酵母菌を加えずに自然発酵させたら、みごとに残りました。昨年の暮れ、震災から3年8ヶ月ぶりに醤油が完成しました
日本中のあらゆる人たちの縁、それが重なり合って絆になりました。今までエネルギーは油に頼ってきて、買うのが当たり前だと思っていましたが、震災後、発酵の技術を使えばいくらでも新しいエネルギーを作れるということを考えるようになりました。これからの時代、農業でも何でも油を使うということをやめなければだめだと思います。ハウスなどで熱が欲しければ自然エネルギーを使うようになっていくように。木質バイオマスだったら、山の作り変えになって山で働く人の雇用の場が生まれます。これからの地域づくりというのは全体に考えていって、そういう理想的な町を作っていくと、行きつくところは農業になると思います
[神足]
90年代初頭、八木澤商店が地元の有機大豆と小麦を使って有機の醤油を作りました。ところが、地元で1本も売れないからやめるということになりました。八木澤商店は陸前高田の醤油屋だから、地元あるいは岩手県内の利用者に理解されなければ意味がないと言うのです
河野さんは地元・地域がベースです。地元・地域という考えでやってこられたからこそこれだけの見識があるのでしょう。オーガニックの醤油ができているのに地元で売れなければ作るのをやめてしまうのです。八木澤さんが一番大切にされているのは地元なのです。原料はすべて岩手県産です

秋田産の大豆のほうが良いものでしたが、陸前高田の大豆を使っていました。けっこういい値段でしたが、そこで叩いたら大豆を作るのをやめてしまうでしょう。うちも我慢して、もっといい大豆ができたらもっと高く買うよと言って使っていました。今、隣町の小学校が廃校になってそこに工場を建て、隣町の人たちがうちのために大豆の農業組合を作ってくれています。その時に、この農薬とこの農薬は使わないで、この品質をしてほしいと、そういう横のつながりを大事にしています
今、岩手の内陸部の異業種の食品業者とコラボしてお菓子やスープなどを作っていますが、「添加物なし」ということを決めています。せっかく農薬を使わないもので作っても、添加物を入れたら意味がないですから。有機や無添加などというシールをはりさえすれば鵜呑みにする、そういうことで金儲けするやつは愚の骨頂です。まともな物を、まともな時間をかけて作って売って、まともに理解できる消費者が買ってくれる、そういう社会にならないといけないと思います。エネルギーについても、2万人の町で使うエネルギーを自分たちで自分たちの使う分だけを作る、それをモデルケースにして自分たちで考えていければいいと思います。食べ物だけでなく、食べ物を作る段階で使うエネルギーについても考えていかなければならないと震災を通して考えるようになりました
[神足]
震災前から人と人とのつながりを一番に考えていたから、震災後に特別ではなく、当たり前にそこからスタートできたということですね。ありがとうございました。次にもうひとり、河野さんともつながりのある岩手県北部の尾田川農園の尾田川さんに話を伺います
[岩手県 尾田川農園 尾田川勝雄さん]
岩手の北部、青森との県境が私が雑穀を作っている地域です。八木澤商店さんは地域に根ざした形で醤油・味噌を作っていらっしゃいますが、私は農家です。種まきをして育て、自分たちの食べる作物を作ってきました。今は商品作物として扱ってもらっています
有機の雑穀を作ろうと決意した経緯としては、りんご農園をやっていた父が農薬で体を悪くしたことと娘がアトピー性皮膚炎を患ったということがきっかけとなり、勉強をし始めることになりました。勉強していくうちに環境への配慮と農薬の影響を知ることになり、いいものを安心して食べられるものを供給していきたいという思いが強くなっていきました。当時、お米をもっと作れ、雑穀はどんどんなくなり、邪魔者・貧乏人の食べ物・時代遅れという風潮がありましたが、野菜や乾ししいたけ作りを全部やめてアマランサス作りから始めて、雑穀の契約栽培をスタートすることになりました。有機JAS法がない時代ですから安心なものを作るとはどうゆうことかと自問自答の中で、自分たちの地域でしか作れない雑穀をアレルギーの子どもたちに提供していくことが責務だという思いで始め、雑穀の専門農園として30年が経過しました。仲間と共にやっていく中で、地域も救わなければならない、地域おこし・地域産業としてやっていくんだという思いが出てきて、現在300件以上の農家が契約農家となっています。尾田川農園の商品に名前と住所が記載されています。うちのブランドとして生産者を大事にする、神足さんのお話の中でも生産者が主役だということを今日再認識しました。食べ物でハンデを背負って表に出られない、そんな思いをしている方々のために、是非私が出来ることをやろう、というのが尾田川農園のブランド農業です。その中には地域をブランドする、これからをブランドする、農家の経済的なものをブランディングして地域を発展させようということも含まれています
100年続く農業を実現するにはどうしたらいいか考えたら、やはり地域全体、雑穀だけではなく農業全体を保障できる環境を整えていかないとならない。種を蒔いたら安心して生産できるという保障ができる環境を。安全なものを作るためには、種を蒔いてから商品を届けるまで全部を把握している必要があります。6次産業、7次産業と言われますが、わたしたちの商品もデパートなどでも評価されるようになりました。震災時、食べ物を持っていくにも連絡がつかないという状況で、調理しなくてもすぐ食べられる安全な雑穀、シリアルを考え出し作りました
過疎化、高齢化など問題はたくさんありますが、5年後には生産量が半分になってしまうということが断言できる状況です。その時、外国のものを買いますか?消費者の方には大変な問題なんだということを理解してもらいたいと思っています。自分たちでできることは自分たちでやり、一所懸命努力していきたいと思います

交流会 10/31(土) 1Fラウンジにて

18:45~20:30

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