イベント情報

オーガニックショー ポラン広場東京 2014 稲澤美穂子イラスト展

トークショー 岩手陸前高田 八木澤商店 八代目 河野和義会長 大いに語る

13:45~15:15 トークショー 『三陸 海のまなざし』

  • 朝日田卓先生朝日田 卓  (北里大学海洋生命科学部教授)
    岩手県生まれ、水産学博士
    著書に「三陸の海と生物」(共著、サイエンティスト社)、「岩手の魚百科」(共著、岩手日報社)、「奇跡の海三陸」(共著、イーピックス出版)など
  • 稲澤 美穂子
    稲澤美穂子さん 多摩美術大学 デザイン科グラフィックデザイン専攻卒
    カリグラファー・デザイナー・イラストレーター・日本画家として活動。ポラン広場東京やPODのキャラクター・商品パッケージでお馴染みの稲澤さんが今回、2011年開催の日本画展「飛流」~2013年「奇跡の海 三陸 ばぁの海」までの数々の作品を展示

はじめに

稲澤美穂子

ポランさんとは p(ピー)ちゃんのキャラクターやポラン広場東京カレンダーでお世話になっています。
そして日本画作家としても活動しています。
今日はその日本画「飛流」から始まり、ポラン広場東京の代表の神足さん、そして、この後に話をしてくださる北里大学海洋生命科学部教授 朝日田先生、八木澤商店 河野会長、そして 2014年のカレンダーに至るまでを “人をつなぐ”という意味で簡単にお話させてください。

「飛流」を描き始めたのは、2011年2月でした。
おわかりの通り、そして3月11日。
それ以降、誰もが考え感じたように私もいろいろな事を感じました。
そして私の場合は絵が描けなくなりました。

被災地に行ってみたいと思いました。
同時に“私のような者が行っても良いのか”という思いもありました。
私の動機は自分の絵が描けない事だったからです。

そんな時に2012年のカレンダーの件でポラン広場東京の代表の神足さんからメールがありました。
その返信に「東北に行ってみたいと思うのです」となにげなく書きました。
「行かなければ何もわからない。何が出来るかもわからないのですよ。行きますよ。ご一緒しますか?」と言っていただきました。

現地で見て感じた事は事が大きすぎて何もわからない。
今は自分のやれる事を精一杯やろう。今はそれしかわからないでした。
そして見学で終わらせてはいけないという事だけでした。

東北で私は希望を探していました。
陸前高田の黄色い旗、石巻の震災前の子供達の絵、そして花。
日頃なら見過ごしてしまう事が小さな希望のきっかけになる事を知りました。
絵を描くってこんな事だったのかな・・・と思いました。
戻って、製作中の日本画に胡粉という白い絵の具をぶちまけました。
そこからの描き始めです。

2012年のポラン広場東京のカレンダーの制作も始まりました。
一緒に行ったスタッフの板垣鹿さんの発案で
表面に見えているものは様々であっても底にあるものは一枚で絵でつながっている
というテーマにしようと言う事になりました。
その作品はその時に製作中の日本画をベースに一年の自然と宇宙をテーマにする事になりました。
そしてカレンダーには必ず DON'T FORGET TOHOKU を入れる。
それが2012年のカレンダーです。

日本画の作品名は「飛流」としました。
「飛流」とは、李白の漢詩から取った名前で “天の川から落ちる滝のようだ”という一文から
私は光の滝をイメージしました。

それから一年、少しづつ東北の話が薄らいでいく中
昨年、春、ある組合から支援として、
“三陸鉄道ラッピング列車の絵を描かないか”という依頼がありました。
私は二つ返事でした。
やっと何かが出来るかもしれない

でもそれはすぐに私のおごりだった事に気づくのです。
いざ、何を描くのかと考えた時に
到底、イメージが出来ないのです。
神奈川にいる時は宮沢賢治なのかな……と漠然と思っていました。

“三陸に行こう!そこで考えよう。”
その時にまたポラン広場東京の神足さんが
今度は陸前高田市、八木澤商店 河野会長を紹介してくださいました。

河野会長は忙しい中
2時間にわたって 震災時から2年の話をしてくれました。
この話は言葉では置き換えられません。
そして最後に「つまんない絵を描くんじゃないぞ」と言って、
三陸まるごと体験館の熊谷さんという方を紹介してくださいました。

翌朝サンテツに乗りました。
青い海と新緑、その中を走る真新しい車両は本当に美しく
目の前に止まった電車のドアの横に
「クエートの支援 感謝します」と小さく書かれていました。
地元の人の気持ちに寄り添った車両で
軽はずみな自分に反省するだけの時間でした。
その後、三陸まるごと体験会館の熊谷さんにお会いしました。
三陸まるごと体験館は仮設です。
熊谷さんは三陸のおやつでもてなしてくれました。

「みんな、この車両が好きなんです。このトリコロールカラーのデザインが大好きなんです」と
おっしゃいました。
「私もそう思います」とお話したら、少し考えて

「三陸には 地元の私たちですら知らない 海の生き物が沢山います。
その不思議なお魚を地元の子供達に知ってもらえるような列車だったうれしい。
私は子供達に海を嫌いにならないでもらいたい」と言われました。
「ここには北里大学がありました。その学生さんのとった写真です。」
と言って 不思議な魚を沢山みせてくれました。
そして朝日田先生を紹介していただきました。

大学は現在は相模原です。
朝日田先生は突然の連絡にもかかわらず
快く三陸の海について語ってくださいました。

ただ、私の最大の失敗は、
三陸の海をイメージだけでとらえていたのです。
三陸は世界三大漁場だった事。日本が世界に誇る海だったのです。
その自然は未知数で、途方もない海の生き物の営みの場所だったのです。
描くものが決まった事でほっとして有頂天で考えてなかったのです

朝日田先生は その唐突な私の「三陸の海の魚を教えてください」という
質問にわかりやすく答えてくださいました。

今、列車は2013年の7月から久慈~田野畑間を走っています。
列車で終わらせてはいけない。
それが2014年、ポラン広場東京のカレンダーです。

朝日田先生に 三陸の海について書いていただきました。
そこには海を守ってきた人々の心がありました。
海の中の不思議な営みがありました。

2011年に東北を旅した時からやっと
私に出来る小さな事を見つけたような気がします。
私は三陸のすばらしさを伝えたい。
絵が描けないという自分勝手な気持ちから始まり
三陸の人と自然が大好きになって
逆に私がたくさん助けてもらった出来事でした。
そして今、ここに
朝日田先生、河野会長、神足さんがいる。
日本画「飛流」があって、未知数の中のたった12枚ですが三陸の海の絵がある。

河野会長は神奈川に帰るわたしに
「何か少し役に立った?細くていいから末永くね」と最後におっしゃいました。

昨年、秋、三陸鉄道に乗りに行きました。
その道中はガレキの少なくなった、ただただ広い茶色の土地が広がっていました。

三陸鉄道は熊谷さんの計らいでお魚の列車を私の時間に合わせて走らせてくれました。
“列車の中で食べよう”と熊谷さんは食べきれないくらいお弁当を買ってきてくれました。
その記念写真を熊谷さんに送りました。
「笑っている記念写真って震災以来初めてだ」と喜んでくれました。
それが震災後2年半たっての三陸です。

自然のきびしさを知っているからこそ
そのすばらしさを知っているからこそ大切に守りながら
地元を愛して、めばっこく、温かく、きびしく生きている三陸の方達に出会えた事で、
私は人の力を知る事が出来たように思います。

昨年、ある出品でパリに行きました。
現地に住む友人に
「3.11の後ね、町を歩いていると、日本人ですか?って話かけられて、
握手をしてって言われたの。私は何もしていないのにね~」と話していました。
他にも、逆に力をもらったという言葉はたくさん聞きました。

被災地には私たちが知らない、わかりえない事が山ほどあるはずです。
でも、まだまだ続くこの復興。どんな形でも良い、どんな思いでも良い、
どんなちいさなきっかけでも良い。
忘れずにいる事が大事だと思うのです。

「細くていいから末永くね」
そして今、この出会いがまたどこかで誰かの次の繋がりになる事を祈って終わりにします。

「三陸 海のまなざし」

北里大学海洋生命科学部教授 朝日田 卓

北里大学海洋生命科学部の朝日田です。今日はいろいろなご縁があって、ちょっとしたお仕事をさせていただいたんですが、さらにもっと働けという神足さんのご依頼から、ここに来ることになりました

キャンパスでいきなり避難生活…防災に備え過ぎはない

岩手県の大船渡市三陸町というところが、私たちの三陸キャンパスがあったところです。2011年3月9日、卒業式の最中に震度5弱の地震が発生しました。何事もないように卒業式を終えましたが、よく考えたら非常に危なかったですよね。大学では以前から地震対策や防災事業が本格化していて、備えもして訓練もしていました。訓練が役に立たなければいいねと話していたのに、その2日後3.11にそれが役にたっちゃったということです。キャンパス近くも大変な状況で、我々もそのまま、いきなり避難生活に突入していきました。我々のキャンパスは、怪我人はほとんど出なかったけれど、アパートに住んでいた学生1名がいまだに行方不明です

道路もふさがってどこにも出られない状況になって、そんな中で備蓄品を出したり、グラウンドに逃げて、いきなり訓練通りの避難生活が始まりました。こういうことが起こるんです。明日は我が身ですので、どこかで忘れてしまうと怖いです。皆さんは水など備蓄しています?やはり最低限自分の身は自分で守るのが基本ということを痛感させられました

それから小型の発電機で電気を起こしたり、なんとか情報を得ようと、BSアンテナを避難所(体育館)に設置したりしました。中越地震を機に導入していた衛星電話で大学本部と連絡をとりながら方策を考えましたが、とにかく学生たちをいったん東京に逃がそうということになりました。様々な対応に追われながら、大学の本部(東京白金)が差し向けるバスを待つことになったんですが、キャンパスまでバスが入れない。ようやく自衛隊が道を通してくれ、バスが来れるようになったのが震災後4、5日めです。

この間、厳しいものがありました。余震もひどかった。春先で寒かった。三陸で3年以上過ごした学生は沈みがちな気分をよく盛り上げてくれて。夜はランプ生活、パソコンも何も使えないのでホワイトボードで点呼して、こんなふうにしてようやく我々はまず学生を東京まで逃すということをしたんです。あとから考えるとよかったと思っています。バスもトラックに燃料を積み込んで一緒に走らないと、ガソリンがどこにもないので長距離もだめなんです。すべて自前で

様々な支援がありました。同窓生から支援のガソリンが届いたのを地域に配給したりもしましたので、私はしばらくガソリン屋さんをやっていました。ガソリンスタンドが壊滅していたから、手漕ぎのポンプで夜中に汲み上げて近くの避難所に届けるということを、その後1週間以上やりました。食べ物は学生食堂の食材をつかわせてもらったりした。ようやくかなりの学生を逃して、残った部隊でいろいろやって、米軍や自衛隊のヘリもようやくやってきて、卒業生たちもかけつけてくれるようになりました

いろんなことがありましたが、防災に備え過ぎはないなというのが実感です。現在は、メインキャンパスのある相模原に移って2012年に新しい建物を建てて、ようやく落ち着いたところです。(三陸の)海から内陸にきたんで陸に揚がった河童だなどと話しています

奇跡の海は着実に回復している…今後は人間の活動の影響が心配

現在は、三陸に月1回通って、海の生き物の調査をしています。魚の稚魚が(震災後)どういうふうに育つかという。将来の水産資源にとって非常に重要なのです。みなさんよくご存知と思いますが、(稚魚の生育にとって)アマモ場とか波打ち際は重要なのですが、そういう場所が(震災で)かなりダメージを受けています。そこらへんが将来の復興のためにも心配ということで、こういう仕事を今は主にやっています

波打ち際にはヒラメとかキスとかいろな赤ちゃんが集まってきます。三陸にも波打ち際に集まって産卵する魚がいっぱいいるんです。そこで一生を終える魚もいます。震災前は85種類以上の魚がいました。赤ちゃんってちょっと違った形をしているので、見つけても何の魚かわかるのが大変なんですけれど、研究の蓄積があるのでなんとかわかっているというところです

防潮堤の跡が崩されて陸地が海になっちゃった場所に、砂がたまって次第に稚魚が集まるようになりました。そしたら今度は侵食がだめだというんで、国と県が波打ち際を潰したら、今度は稚魚が集まらなくなったり。でもその後、ふたたび砂が手前に集まって、そこに稚魚が集まりはじめて……。自然はよくしたものだなと思っていたら、今度は新しい防潮堤の建設が始まり、砂浜は瓦礫置き場になって、現在は環境が悪化しつつある。……というふうに、自然そのものはだんだんに回復するとは思っていますが、今後は人間の活動の影響を心配しなければならなくなる可能性があるな、と考えています

震災後の2011年にほとんどいなくなっていた魚の稚魚が、今はだんだんと増えています。防潮堤が破壊されて全然違う環境になっているのに、魚の赤ちゃんたちは自分のすみかを見つけてけなげに生きているという状況となっています。去年は幻のカレイといわれる(1尾何万円もするような)ホシガレイやヒラメなどの稚魚もみつかってきています。アイナメも産卵して子どもが生まれるようになっている。ということで、だんだん、三陸の海というのは、回復し始めているというところです

もともと三陸は「奇跡の海」といっていいほど、様々な好条件が揃ってできている海ですので、復活しないわけではないだろうと思ってはいたんです。が、そのスピードはけっこう早いなという印象です。数年はだめかなと思っていたんですが、そんなことはないなと安心しているところです

たとえば川の魚、鮎が2011には激減した。ちょうど遡上に備えて河口、湾口にいたのがおそらく津波でやられたんだろう。(魚の頭部にある)耳石で生まれてからの日数がわかるんですが、鮎の産卵は2011年9月には確認されているのに、震災後、その9月生まれがいなかった、全滅してしまった。ちょうど川を上ろうとしていた連中が津波でやられたんだろうという話です。今は鮎も順調に回復しています。自然は着実に回復していますが、震災は、我々の生き方も含めてですが、過去の検証をいろいろ迫っているなという印象です

三陸 海のまなざし…すばらしい三陸の海を活かした復興を配

復興については、制約が多くてなかなか進まないという印象です。ただでさえ過疎化が進んでいたところがさらに過疎化が加速されたり、文化といわれるものも、コミュニティの崩壊によってどんどん失われている状況。なかなか一朝一夕に行かないというのが現状かと思います。そんな中で、すばらしい三陸の海を活かした復興が一番重要なんだろうなと思います。食べ物としてだけでなくて、環境などすべてのものが価値だと思いますので、新たな視点で産業の再生ができれば一番いいと思っています

雇用創出型の復興がないなというのが私の感想です。津波で使えなくなったところに防潮堤造ったりというのは、長い目で雇用を創出しないですよね。例えば、海になった陸地を管理型漁場や観光型漁業に活用したり、防災も含めた未未来予想図を描いていったらということを話すんですが、ようやく今被災地の人たちが、自分たちのところをどうしたいのかということを考える余裕が出始めてきたところです。ただ、法律上の制限がいっぱいあったり、高齢の漁業者のことも含めたまちづくりを考える必要もでてきます。将来の世界遺産にするつもりでの街づくりが目指せればと思っています

[1]海から学ぶたくさんの知恵…海の資源の利用について考える

こういうような社会問題の隠れた要因のひとつとして、私がいつも考えているのは、生活と様々な学習が離れてしまっているなということがあると思っているんです。学生の中に、タラコというのは、魚が岩に卵を産み付けて、それを漁師さんが捕ってきて、塩漬けにしたものだと思っていた学生がいたということに衝撃を受けました。でも、タラコって、作り方を知っている人は少ないですよね。そのうちサケだって切り身で泳ぎ始めるんじゃないか。さらに、鶏は卵を生む動物で、鶏肉は羽毛の生えていない、鳥肌の姿の動物が肉にされたものと言っていた学生もいたということで驚愕。スーパーじゃ鶏肉を羽毛付きでは売っていませんから。非常に我々の生活は便利になった反面、(生産の現場から)非常にかけ離れたところに来てしまったのではないか? 生活用品の製造過程が見えないとか、科学技術が進歩して人間の感覚が追いつかないということもある。携帯電話のメカニズムなんてわからない。技術が進みすぎ便利になりすぎている。大学の授業だって試験を目的とした授業にならざるを得ず、自分たちの学習が生活に結びついていないと言う人もいる。でも、勉強ってすべて生活に必要なことなんですね。物理学だって。なかなかいろいろむずかしい問題がある

たとえば、生き物の利用方法だってちゃんと考えていないということがある。メヌケという魚がいます。おいしい魚ですが、日本ではほぼ壊滅状態で超高級魚。どういうふうにその魚が暮らし生きてきたのかということを無視して生き物を利用してはいけない。特に人間を基準にしてはだめだ。その一例が寿命の話なんです。魚によって寿命は違うんですが。メヌケの仲間は寿命が長い。ヒレグロメヌケはなんと150年!みなさんが驚くのは、無意識のうちに自分と比べてしまうからですね。こんなに長生きするものを人間の時間感覚で乱獲してしまったらどうなるでしょうかと。いなくなっちゃいます。大人になるのに20年もかかる魚です。だから20年待って、卵を産んでから獲らないと、いなくなっちゃいます。現実に日本近海ではほぼ絶滅、というわけです。なのでたくさんとることを乱獲と思っている方が多いと思いますが、たくさんとらなくても乱獲になるんです。相手の生き様を考えずに利用するから

サケは川に戻って卵を産みますよね、今は人間がつかまえて人工孵化。その場所はみんな河口の付近です。本当はもっと上流までさかのぼって産卵したかったかもしれないんですが、河口。そうするとサケだけでなく人間にとっても不都合なことがおこるんです。今回の震災で下流域のふ化場が全滅。ほんとうならもっと上流まであがっていたので大丈夫だったはずです。自然産卵をまったくさせないようになっているので、ふ化場がなければその年のサケは全滅。安全弁がなくなっちゃったんですね

それだけじゃなくて、サケは川を遡ることでいろんなところに栄養を与えるんです。それで結局海も豊かになるという役割を担っていた。我々は、サケの仕事を「栄養の宅配便」と呼んでいるんですが、サケは、子どもの時に海に行って海で大きくなって山にもどっ栄養分を山に返すんです。そうすると山も豊かになって海も豊かになる、そういうサイクルなんですけれど、それを人間が断ち切っている。だからカナダ・アラスカ行くとものすごいですよ。サケの遡上で上流は臭い。日本では住民から苦情が来る。臭いからなんとかしろと。ほんとうはそれが全部自然に帰ることで、山がもう1回豊かになることなんですね

アラスカのふ化場は観光拠点にもなり、レクリエーション、水族館もある。復興もそういうふうに、これまでの悪い点を改めながら新しい方向でやれればと思うんですが、なかなかできない。復興ではなくて復旧止まりになってしまっています。これは、新しいことを加えると復興予算がつかないということも原因と聞いています。うまくすれば、環境保全型の水産業というのは、実は儲かるんですね。しかも、新たな雇用創出にもなるので、先述の「雇用創出型の復興」にもなるんじゃないかと思うんです。さまざまな産業がからんで、複合的にまとめていくと、様々な価値を生み出すことになる

豪華客船の「飛鳥2」が大船渡に毎年来るんです。どうしてかというと、飛鳥のお客さんたちは、素朴なもてなしを求めてやってくるということだそうです。漁港の散歩だってツアーとして成立するという。港におばあちゃんが佇んでいて、「あーらアンタァどっからきたの」と言われるだけで幸せなんだそうです。それでまた来年も来たい、となるそうです。大船渡にはこういう資源がある。活用できる資源があるということなんです。今だとちょうど早採りワカメというのがあるんですが、このワカメがまた素晴らしいです。何トン食べてもいいと思うくらい美味しい。こういうまだ値もつかないようなすばらしい財産があるということなんです

[2]これまでのエネルギー利用でいいのか?…震災からの教訓に学ぶ

よく「地球にやさしい」というが、これは「人間の生活にやさしい」、と言い換えると、いろんなことがみえてくるんじゃないか。自然への畏敬の念を忘れない、ということは、我々どこかで考えていかなければならないというふうに考えています。我々はこれまで五感を大切にしてこなかったな、というのは非常に反省点としてあるのかなと思います

たとえば近所に「半鐘」ってありますよね、カンカンって鳴らすやつ。今、ほとんほ電気のスピーカー。でもあれ、電気がダウンしたら使えない。実は三陸でも半鐘があったところとなかったところがあって、我々のところでは防災無線が全部ダウンして、一切の情報がないところで津波が襲ったので大変でした。そういうことも含めて、我々は今どういうふうに生きているんだろうということを、考えていければと思います

これまで我々の世界が反映してきたのは、環境負荷がタダだった、ということもあります。なので、太陽エネルギーは、人類が使っている量の1万倍降り注いでいるということですから、うまく使わないテはないなと。エネルギーは変換しないのがいちばんいいんです。今我々が依存している石油は過去の地球のエネルギーです。恐竜時代の植物が地中にしまいこんだC(炭素)をもう一回掘り出しているから、その分CO2を多く放出してしまうという話なんですが、鉱物であっても、そういう歴史を踏まえて利用するのがいいでしょう

太陽エネルギーは広く薄く分散しているエネルギーなので、一箇所に集中して使う、つくるというのは間違っているという方がいらっしゃいます。いちばんいいのは使う場所でエネルギーを取り出せるのが送電もいらず、エネルギーの変換ロスも少なくて済むわけです。なので、そういう技術開発になればいいんですが、メガソーラーなども、そうした観点からはずれている。われわれは石油エネルギー的なエネルギーの使い方造りかたに慣れすぎていて、ちょっと考え方を変えていかないと。そこがうまくできるとたぶん世界に冠たるエネルギーの模範国になるのかなとも思います

水車。あれは普通は粉挽いたりするので、運動エネルギーを運動エネルギーとして利用するから(エネルギー変換がないので)非常に効率がいいそうです。ところが、運動エネルギーを電気エネルギーに換えて、さらに運んで運動エネルギーにまた変換するなどでは相当に効率が悪い。昔の人のように、なるべくエネルギーの変換をしない、熱は熱として使うという。太陽熱は直接それでお湯を沸かせればいちばん効率がいいわけなんですよね

「海のまなざし」…終わりに。もう一度自然に学んでいくこと

陸が海になったところに仮の防潮堤ができ、そこに渚を残そうとしているところなんですが、200mぐらい内陸側に新しい防潮堤ができるので、渚が残ることになったんです。今、この渚をどう使うかということがテーマになっています

未来を描く。最近の子どもたちは未来の絵に、緑を描くそうなんですが、我々の子どもたち、孫たち、さらにその子孫たちに何をつないで何を残していくかが重要なのかなと。震災は我々が気づいていなかったことに気づかせてくれました。もう一度自然に学ぶべきだという。我々だっていつか死んでしまいますが、子孫はずっと住み続ける。こう考えると、稲澤さんのカレンダーのお魚たちが見つめている「海のまなざし」ですね、これに答えるために私たちはいったい何をするのかな、何ができるのかなと、稲澤さんの絵を見ていて思いました

常に海の生き物たちに見られているという意識を持っていたい。お前たちはおれたちの世界を利用してるよね、その中でどういうふうにしていくんだい?って、いつも見つめられているような気がします。人間から見ると孫子の代までどうしていくか、ということが大事です。ということは、海の生き物たちからも同じことが言えるんですね。それを人間がつないでいけるように利用していかないと、と思うんです。そういうあり方にならないと、人間も生き物ですから、他の生物資源を使って生きている存在なので、最終的には根底が崩れてしまう。それに対して、稲澤さんの絵に描かれたような「まなざし」から、「お前らだいじょうぶか、ちゃんと見張ってるからな」と、言われていると思います

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