イベント情報

オーガニックショー ポラン広場東京 2014 トークショー

トークショー 岩手陸前高田 八木澤商店 八代目 河野和義会長 大いに語る

15:30~17:00 岩手陸前高田 八木澤商店 八代目 河野和義会長 大いに語る

    八木澤商店河野会長
  1. 陸前高田の復興と地元地域の状況
    「地元学」の視点を交えて
    震災前の陸前高田/震災・津波/……の映像と共に
  2. 八木澤商店 200年~
    東日本大震災・大津波から醤油の生命が守られた
  3. 「私たちは取引をしているのではない、取組みをしているのです」
    ポラン広場東京に集う生産・製造者と流通販売、そして消費者に向けて

何もかもなくなりました…陸前高田の復興と地元地域の状況

八木澤商店は1807年創業で8代目のお醤油屋です。現在は9代目が社長をやっています。陸前高田の悲惨な状況は皆さんテレビでご存知と思うんですが、震災前はどうだったかということをあまりご存知の方も少ないと思います。7万本の高田松原があり、川の西側が陸前高田市気仙町になります。この松林は350年前に当時の庄屋さんが私費で防風林のために植えたものなんですね。実は昭和35年チリ地震の余波で6mの大津波が来ているんです。その津波でもこの松林は残った。私の集落は気仙町今泉というところ。平成元年に醸造だけじゃ食っていけんということで、のちにポン酢やドレッシングやつゆなど、私の代でつくった工場があるんですが、この集落には35年の6mの津波も、その前の昭和8年も、明治の津波でも一滴も水が入ってこなかった。調べたら350年は間違いなく津波は入っていないんですね。いちばん大事にしている大庄屋さんの建物が400年前からあったんです


震災前の高田松原

震災前の今泉(姉歯橋付近)

震災後の陸前高田市

大庄屋

震災前の八木澤商店

震災前の八木澤工場

震災前の八木澤醤油蔵1

震災前の八木澤醤油蔵2

震災前の八木澤工場
不幸中の幸いか。子どもたち

八木澤の従業員たちは、工場の裏の諏訪神社で年2回訓練してきたということもあって、社員1人をのぞいて全員が助かった。だけど1人失いました。消防団という組織で、水門を閉めなければと一人で行って帰ってこなかった。このとき、八木澤は大げさすぎるねと、いつも諏訪神社の山の上まで登って避難訓練していた。その山の上は大丈夫だったのに、市の指定の津波の避難所はほとんどだめだったんです。私の妹は高台の公民館に足の悪いばあちゃんと一緒に逃げて、まだ遺体も上がっていません
気仙町は、604戸あったうち597戸跡形もなくなくなった。その中でものすごい奇跡が起きている。保育所小学校中学校、子どもたちがひとりも死んでいないんです。ただしこの集落だけで震災孤児が2人出てしまった。両親もみんないなくなり。陸前高田全体で、震災孤児は27人。高校生入れると33人です。どれくらい孤児院に行くようだろうと思っていたら、孤児院に行く子はいなかった。遠くても親戚が引き取っているようです

子どもたちは辛い体験を耐えました

当時私は孫が5人ですが長男の子どもが全員小学校。上から6年、4年、2年生。4年生の孫が1年半たってから「じいちゃんが、子どもたち全員助かったのは奇跡だっていうけど、本当のこと言おうか、僕が一番危なかったんだよ」
聞くと、校庭にみんなが集まった時、何も知らない新米の先生は屋上に行こうといったのに、屋上に行かなくてよかった。人が一人通れるだけの山道があって、地域の宝ものは子どもたちだからまず子どもたちを登らせようと。ところが孫はうんこにいってそこにいなくて、戻ったらまだ八木澤の孫がいたぞと、おばあさんにおしりを押されて山を登った。ぎりぎりのことで後ろを振り返ったらおばあさん力尽きて仰向けになって津波に押し流されたんだという
なんでそんなたいへんなこと今まで言えなかったんだと聞いたら、怖かったのもあったろうが、そのばあちゃんが1年半たって夢に出てくるようになったと。じゃあ毎朝ばあちゃんのお陰で助かりました、と何日でも拝めと言ったら、このごろは出てこなくなったということです
当時4年生、今6年生です。はっきりと変わった。ばあちゃんと約束したんだからって、「先生、生徒会長オレにやらせてください」と。そんなこと言える子じゃなかったんです。震災後子どもたちはみんな明るく見えますが、みんな心に一物持っているんです

逸話。君がいないと困る

陸前高田は伊達藩の直轄領。かつては大小合わせて18の金山があった。ご存知平泉の黄金文化は陸前高田が元ですからね、佐渡金山が発見されるまでは日本一の金山があった。うちの集落は今泉っていいますが、内陸に今泉街道というのがあります。それが平泉に行ってるんです
うちは全部土蔵造りなんです。土蔵は土で出来てる、土蔵は竹で縄で編んで骨組みができている。全部流されて、3階建ての昭和38年に建てた、醤油の麹を造る工場だけが、ぼろぼろになって残りました
平成元年に建てた、つゆ・たれ・ドレッシング・ポン酢の工場があったんですが、今、不思議なことに震災前より売れているものが1つだけあります。平成元年にこの工場でつくり始めた「ゆずのポン酢」です
どうして?というと実はこの陸前高田が柚子の栽培北限で、ポン酢をつくろうとなった。どうせつくるならちょっと贅沢しょうと、安全にこだわりすぎて、だしも全部、一流の板前さんと相談しながらやったらとてつもなく高いものについて、ほんとインターネットでマニアックな人しか買ってくれないという品物になっちゃった
それが震災後まず、品物あったらなんでもいいから送りなさいと、けっこう有名な料亭でうちのを業務用に使ってるオーナーからも言われました。早くあのポン酢つくれ、あれぁプロ並みの味だから、早くつくってくれないと困る。つゆ、たれ、ポン酢とか、つくってくれよと。それが「君がいないと困る」シリーズになりました(笑)

杉樽で見つけた希望…震災前の陸前高田/震災/津波/…の映像と共に

つながろう!ニッポン 故郷の灯は消さない ~陸前高田からのメッセージ~
第2話:杉樽で見つけた希望~老舗醤油会社の"奇跡"(2011年7月10日放映)をもとに内容の一部を引用させていただきました。http://www.tv-asahi.co.jp/tsunagarou_03/

醤油の醸造会社、土蔵で囲まれた、江戸からの老舗八木澤商店。震災の津波でなまこ壁の昔ながらの土蔵も製造設備もすべてが流されて、被害総額2億円。商売の継続は誰も不可能だと思われていた。ところが八木澤商店は廃業することなく、従業員を誰一人として解雇しなかった

こんな会社だけどどうでしょう?

「雇用は全員維持することをお約束します」「売るものも何もない会社です。残ったのはトラック2台だけです。お二人、こんな会社だけどどうでしょう?」(9代目・河野通洋社長)

2012年4月1日。9代目の河野通洋社長は、社員をひとりも解雇することなく、経営を続けることを宣言した。パート10人含め40人。そこに新入社員2人を予定通り迎えた。会社の存続さえ危ぶまれる中どうして全員の雇用を打ち出したのか?

「雇用を失う不安で自殺する人もいなかった。10年後、そういう町にするのが、今残された我々の使命だと思って、これ以上犠牲者を出さないように。津波で助かったけれど、失業して、生活の基盤を奪われて、未来を失って心が壊れて死ぬ人がコレ以上ないようにしたい」

売る商品もない中、最初の仕事は被災者に支援物資を配ること。会社の売上にはならないが、新社長はこれを会社の業務として認めて続け、会社再建の足がかりになるものはないかと探し始めた。そんななか、津波で14個すべてが流された醤油樽のひとつが、2キロも流されながら形をとどめて見つかった。そこには希望の光がこびりついていた…


形をとどめて見つかった醤油樽

津波前(右画像と同じ場所)

広田湾(画像上)から迫る津波1

迫る津波2

迫る津波3

迫る津波4

震災後の陸前高田1

震災後の陸前高田2

震災遺構予定の気仙中学校

気仙成田山から広田湾方面

釜石水産技術センター1

釜石水産技術センター2

釜石水産技術センター3

釜石水産技術センター4

釜石水産技術センター5

釜石水産技術センター6

釜石水産技術センター7

釜石水産技術センター8

発見された八木澤のもろみ

取材を受けた漫画『おいしんぼ』

取材を受けた漫画『おいしんぼ』
人の心と希望がつながった

奇跡がおこった。醤油のもろみ。このなかに八木澤の蔵にしかいない特別な微生物が含まれている。日本一と言われた独特の醤油を造り出していた微生物。削りとったもろみが伝統の醤油を復元する手がかりだ。そして震災から52日目の5月2日営業を再開。八木澤のものは何もないけれど、協力により提供いただいた醤油など4点を八木澤ブランドで売ることにした。社員と暖簾は絶対守ると東京の取引先に頭を下げて回った

「我々製造メーカーですから、つくってナンボですから、それができないジレンマってのは、けっこう、ものすごいっすよ。どうしていいかわかんないんですよ。今は自分たちが生き残るために、というふうな形での仕事になってしまっていますね、それは非常にくやしいです」

奇跡がさらに起こった。釜石水産技術センターが、震災の2ヶ月前、研究用に八木澤からもろみを貰い受けていた。研究所内は津波で多くの機材が流出していたが、八木澤のもろみが4キロ以上も残っていた。海水をかぶることもなく。大量の瓦礫の中から見つかったのだ。発見されたもろみは現在、盛岡の試験場にある

「震災で得たものが多い。絆の太さに驚かされた。これが“宝”かも知れない」

人のつながりが奇跡を呼んだ…《解題》杉樽で見つけた希望【その1】

当時の岩手日報陸前高田支局長が、この気仙川を遡ってくる波を取材した。2時46分の地震で、津波の第1波は3時23分。26分が第2波。29分。31分と続いて、みごとに何もなくなってしまった。350年の文化財も、妹が逃げこんだ公民館も根こそぎない、604戸の家並みがなにもない…

醤油の“いのち”が助かった

釜石の水産技術センターに海の微生物の研究所があって、そこの人たちが、震災の2ヶ月前に「さすが200年の歴史ですね、他の醤油屋さんにない微生物がいます。自分たちが研究している海の微生物と、おたくのもろみにしかない酵母菌を合わせると、もしかするとがんの特効薬ができるかもしれないんです」と。そんなら持って行けと、釜石に持って行ったのが2ヶ月前のことでした
4月にテレビで「何にもないのに一人も解雇しない、新入社員2人も入れた」、あの映像は世界中に流れたから、試験場の彼は、この瓦礫の中を泣きながら、もろみを見つけなければ八木澤に顔向けできないって、泣きながら這いずりまわったそうなんです。だから奇跡が起きた。倒れてないロッカーが瓦礫で重なっていて。もろみは、そのロッカーのいちばん上にあった。4月6日に見つかった。15日に初めて釜石と電話がつながった。実は4月6日にある取材が来ていました。『おいしんぼ』って漫画ご存じですか?題名は「めげない人々」。もし4月6日に電話がつながってたら、この「醤油の“いのち”が助かった」というような、もっと奥深い内容のものになったと思います

糸井重里さんとの出会い

陸前高田から内陸にある大東町大原の小学校が、震災の2年前に廃校になりました。耐震基準をみたしていないということで。僕が目をつけていたのはこの校庭。建物は危険ということで入れない。全体の面積が6千坪あって、この講堂や建物を壊す費用のの見積書を出してもらって、その残りの金額で土地を売ってもらったんです。そのかわり自力で壊さないといけないんだけど。震災前よりはるかに広い土地が手に入って、それまでは小さな町の小さな集落だったから、あっちに倉庫こっちに醸造工場、あっちに漬物工場ってばらばらにあったのがぜんぶひとまとめです
大東町大原は現在一関市にあるので、町の人たち、あんた今まで陸前高田だったのに、ついに町を見捨てんのか、って。見捨てるわけないヨってことで、市内に10年も前からずっとやってない旅館があったから、これを借りて本店にしたんです。陸前高田の人たち、商売やってる人はほとんどプレハブ。プレハブは3年毎に建て替えないといけない、というくだらない法律があるんですが、これは10年いようが20年いようが大丈夫。元の今泉にはおそらくは10年以上戻れませんから

「今度の震災で私は大発見しました。日本の経済というのはアメリカがちょっとおかしくなるだけで日本の経済もたちまちおかしくなります。そのときに大企業ほど人のクビをバチバチ切ってきます。今度の震災で、パートさんまで含めてひとりも解雇しない、挙句の果てに2人の新入社員まで入れちゃった、アホな会社があります、アホな親子がいます。でもこのアホは大事じゃないでしょうか、日本人だもの」「私はこのアホさ加減に惚れました。一生、見続け、応援し続けたいと思います」

……これ、5月のGWあと、作家の糸井重里さんがblogに書いてくれたんです。わかりますか?で、私どもはこの床直してとか店作ってとかしてここに本社機能にしようなどと考えていたところ。工場におカネをつぎ込んだもんだから予算もなくて、そんなところに、京都の数寄屋造りの職人さんを40人も抱えている有名な方が来て「私に直させてください」と。糸井さんのblogをご覧になって。断ったけれど「一切お金の心配いりません」と。サッシもアルミじゃない。北海道の間伐材の集成材でつくった木のサッシ。スチールじゃなくて机も木。24年10月1日にみんなが入居して感動したのは木の香りがぷんぷんしたことだ。自慢じゃなくて、人のつながりであります。津波前は糸井さん知らない人、こっちは知ってても、糸井さんはウチらを知るはずもなかった。三浦さんという建築家も知らなかったんです


大原小学校跡地の新工場

大東町新工場原料棟

大東町新工場生揚棟

大東町新工場つゆたれ棟

本店になる前の中霜旅館

本店になる前の中霜旅館

旅館を改装した八木澤本店

旅館を改装した八木澤本店

八木澤商店 河野会長

八代目、故郷に帰る…ウチの家内は「おっかない?」

実は私3月11日津波見てない。東京にいたんだ。あの日、どうしてだか知らないけど、いつもの決まった時間より早く帰りの新幹線に乗った。2時46分。上野を過ぎて間もなく電車が停まった。どうしたんだと。考えたのは「あ、関東大震災」。3月9日に震度5弱のけっこう激しい地震が岩手に来てたのに津波が来なかったものだから、これはとうとう震源が南下して関東かと思ったわけです。2時間半閉じ込められて、新幹線は上野に戻りました。上野で降ろされ、駅にいてはいけないと言われたのでとぼとぼ歩いた。あそうだ、家内の妹が駒込にいるからそこにいこうと電話するがまったく通じない。で知り合いのお店が営業していたんで立ち寄って、「飯食わしてください」と言ったら、そこにピンク色の公衆電話があって、かけたら固定電話、1発でつながった。なんで?みんな便利なものに集中するからその回線ばかりが混む。誰も古い電話機など見向きもしなかったというワケだった

3日後には陸前高田に帰れた。これも人のおかげ。友だちが車持ってきて、「これで帰れ」と。当時ガソリンだって1台に15リッターしか入れてくれない。それではとてもじゃないが岩手まで帰れない。そうしたら、友だちはもうひと晩泊まれと言って、仲のいいスタンドのオヤジにワケを話してくれたら真夜中に来てくれた。しかも違反してこっそり満タン入れてくれた。さらには別の友たちが来て車に何かシールを貼ってくれ、当時高速道路は自衛隊と機動隊と消防車両と医者の車しか走れなかったんですが、「黙って高速道路入って走れ」という。半信半疑だったけれど、高速に入ってみたら入り口の人に敬礼された。んで「ごくろうさん」って(笑)。そのシール、何か手づる使って持ってきてくれたんですね、だもんでこの日、半日ぐらいはエライ人のふりをして、帰ってこれたんです

引き続き地元との電話は通じないんですが、工場のある大東町大原地区までは通じていた。で、長野の友だちが電話をよこして、「おお生きてたか!」と。「やあ何にも支援するものがない。おれ卵屋だから、1万個の卵と3トンの米積んでそっちに走ってる。生卵だとヤバいから1万個ゆで卵だよ!」と。地元の安否をラジオで聞けば、陸前高田は、高田一中の高台に1200人から1500人の人が逃げ混んでるそうだ。だから「そこにもっていってくれ」と。相変わらずどこにどういるかわからない。ウワサでは何とか生きてるらしいが確認がとれない。結局、家族や社員は長部(おさべ)集落に逃げていた。お寺、神社、学校と、そこにたどり着くのにまた半日かかったんです

女性というのは強いんです。子どもたち孫たちがやってきて、孫たちはすぐに「じいちゃん!」人目もはばかららず、家内をハグしよう「生きてたかー」。でもね、女の人、イライラして心配して、どこがどうなってんのかわからない状態と、ハグどころじゃないんだ。会うなり「アンタ今までどこウロウロしてたのよ!」うろうろしてたわけじゃないっつーの(笑)。それからというもの、女房には敬語をつけるようになりました。「ウチのおっかない(家内)」って。(大笑)

八木澤商店、200年間お世話になりました…《解題》杉樽で見つけた希望【その2】

で、まあ、そういうことで、せがれには4日めに会って「オヤジやろうよ」って、「ばかなこといってるんじゃない」、「商売替えてでもやろうよ」「オヤジはいつも社員を家族って言ってきた」。それには実はワケがありました。でっかいテーブルあって、パートも経営者も同じおかずを同じテーブルで食べる。だから家族。で、私は、せがれが「家族だから、切らない、解雇しない」という。いいんだそれで

震災の時、とにかくうちの社員の活躍が半端じゃなかった。何人の人を助けたと思いますか?…支援物資がいっぱい集まっていたのが高田自動車学校だったんです。その社長が中小企業家同友会の会長。せがれがその幹事長なんです。「おまえ行くとこねぇんだから、うちの自動車学校に仲間がプレハブ持ってきてくれたから、ここを八木澤商店にしろ」って会長。で、そこに今度は物資がどんどん集まってくる。そこから、家を流された人たちの避難所に物資を届け始めた。途中で気がつくんですが、家を流された人たちはお寺や体育館へは(物資は)自衛隊が届けた

市役所の職員たちは3分の1死んじゃった。3階まで波が行って3階にいれば大丈夫だろうと安心してた人たちがみんな亡くなって。だけでなく、市が指定した避難所ではかなりが死んだ。シビアに考えると人災かもしれない。何もかもなくなったんだから。指定の避難所なのに。残った市役所職員は遺体の処理、遺体の安置所さがし。しばらくはビニールシートの上にごろごろ遺体があったんですからね。私は妹が行方不明、社員が行方不明。ひとりずつ見るんです。ヘンな感覚でした。異常です。死体が人じゃなくてモノになっちゃう。ああいう感覚は二度と嫌です

で、家が残った人たちが大悲劇。物資が行かないんです。避難民じゃ無かったんだ。電気も水ない、ガスないガソリンない。あとで、丘の上で家が残ってる人に「下に降りれば避難所で何でももらえたろう」と聞いたら、「ばかやろうあそこにいる人たちは何もかも失った人。そこに集まった支援物資を下さいって、俺たちは意地でも行けなかった」と

そこへ自動車学校の職員とうちの社員、家を流されなかった10何人と流されたみんなで物資を配って歩いた。流されちゃったのにどうしてそこまでやるのと聞いたら、「何かさせてくれ、避難所で膝っ小僧抱えて与えられた食い物だけ食べるんじゃ気が狂いそうだ」という

こんな話もあります。孫に、最初に何食ったんだって聞いたら「おむすびだったよ、でも数が少なくって一家に1個だった」って。わかりますか、一家に1個。だから、今、子どもたちも、「おむすびなんかじゃやだ」なんてぜいたくはいいません

物資を、家が残った人たちにこういうセリフで届けるんです。「八木澤商店、200年間お世話になりました。八木澤商店に届いた物資をもらって下さい」と。もらう側が、「八木澤だって何もないんだろ?」「配達したさっきの課長も家流されちゃったんだろ?」「何もない人が家残った人のためにここまでやる?」って聞いてくる。でもこれ社長命令なんですよって言うと、みんなが泣いて喜んだ。その時何人かが、「さすが八木澤商店だね!」「八木澤商店らしいね」って言ってくださって…

震災からずっと、僕は廃業を考えていたんですが、そんなわけで、廃業を考えていないせがれの言うとおり、3月23日「じゃあ、やれるところまでやってみるか」って、決心をしたんです

2人の家族が増えましたよ!…父子の葛藤。《解題》杉樽で見つけた希望【その3】

その時にせがれ「おやじこの配達ボランティアじゃなくて社業にしよう。遺体探ししてるのも社業にしよう」「社業にするってことは給料払わなくちゃいけない」「建物壊れちゃったけれど、銀行に数千万はあるはずだ、あれはおれとおやじのカネじゃない、みんなの金だ。だから収入ねぇけれども、何ヶ月かは給料払えるよ」…とせがれがいう。え、給与明細書も流されちゃった。じゃあ一時金だ。すると、また奇跡が起こっちゃった。瓦礫の中から、うちの給与明細書がみつかったんですよ。「そうかこれは一時金じゃねえ、給料払えってこっちゃ!」で3月31日に私と家内とせがれの3人で一睡もせず銀行から下ろしてきたお金を、明細書通り、封筒に入れていった。3月まではおれが社長だからということで。4月1日、自動車学校に集まって。そしたら家族失った連中も重大発表ってんでほとんど来てくれた。で「誰も解雇しません2人も入れます」となるんですが、この前日にせがれとの大ゲンカがあったのでした

「おやじ、明日はパートさんも従業員もみんな呼んだぜ」いつも家族って言ってきたんだから、ああいいいいと、「ところでさぁ、新入社員も呼んだら来るってよ」「!!!!」…ばかやろ、、まだうちの社員でもないのにそこまでお人よしするコタぁねえよ、そしたら「オヤジは酔っ払うと俺に言ってたあれは全部ウソだったんか!」何だと聞くと…

「会社ってなぁ、おっきくなりゃいいってもんじゃねぇ。売上が上がりゃあいいってもんじゃねぇ。一番大事なのは質だ。質は信用がつくる。信用というのは、常に正直に約束したことは必ず守る。それさえやってりゃあ、会社がちっちゃくっても信用だけは大きい、そういう会社に人が後ろからついてくるって。あれはうそだったんか」…ぐうの音も出ません。ならその予定者を一番前に並んでもらって正直に言えと。「クルマ2台しかない何にもない会社ですが入る気ありますか?」と。僕は、彼のこの後のセリフを聞いて「ああ会社はこいつに任せていいや」と思った

「みなさん。この2人入りたいそうです。また2人の家族が増えましたよ!」

こう言った。まだ1ヶ月たってないんだよ、アホでしょ?要するに何を言いたいかというと、雇用のない街は町じゃないんです。なんぼ生き残った人たちだけがいたって、雇用も何もない街は町じゃないんです。……その日はみんなの給料をおっきな袋に入れて袋持って、「これが社長としての僕の最後の仕事。みんな何だかわかるか、みんなの給料じゃ!」って配って、もうひとつ重大発表「専務が社長になる。会社の再建、これから20年以上かかるから、おれは生きてないかも知れないからと、手渡しました。「2人の家族が増えました」って言ったときぁこいつにまかせて大丈夫だって

…実は心で決めるんです。いくら親子であっても経営者交代したら余計なこと言わない。でもねぇ、一年半もがきましたね言いたくて言いたくて。実は(大笑)

日本人って、やさしい…たくさんの応援に助けられました

2012年は4月になったら応援メーッセージががらっとかわった。それまでは「大丈夫か、がんばれ」って。でも4月から、「八木澤ほんとにやるんだな」と。(開所式、営業出発式の)5月2日に商品として来たものは醤油4種類だった。震災前は170品目あった。その頃は社長として、オイこれ売り上げ落ちてるゾとか一喜一憂したのに、この日の出発式、何て叫んだか。「頑張って売ってきてくれ、売るもの4つもあるぞ!」。4つしかないというのと4つもある、では全然ちがうんです。当時は売るものが何もなくて廃業っていう人がいっぱいいた。4月になったら励ましのお手紙だけでも7千人ぐらい来た。そのうちの5千人ぐらいはお金が入っていました。メッセージを2人ばかり選んで紹介させていただきます…

「おにいちゃんとわたしのおこづかいです。しょうゆやさんがんばってくださいね」って2千円入ってる。泣きましたね。金額の話じゃないんです。「2年ものができるのには5年も6年もかかるのだそうですね。出来たあかつきにはほんの少しでいいですから送って下さい。ちなみに私たち夫婦ただいま79歳。何年でもお待ちしますよ。長生きのロマンが出来ました」

…日本人ってやさしいと思いません?まったくの見ず知らずですよ。2年物の醤油は今年の秋にできる予定なんです。こんなふうにたくさんの人に助けられて、そしたら、醤油の二年もののもろみを持ってるところ東北6県で2つしかない、ひとつは秋田。でも2年物は普通は絶対ゆずらない。うなぎ屋が火事起こしたらタレ持って逃げろ!というのと同じくらい大切なものです。そしたら秋田の醤油屋さんが、うちの2年物をわけてやると。これはもろみが見つかったのと同じぐらい嬉しかったですね。ものすごく。

このお醤油屋さんとはどういう間柄だったかというと、うちはこれでも品質日本一を3回取ってるんですが、秋田のそこも3回。あっちが1位ならこっちは2位、ウチが1位の時はあっちが2位っていう関係で。これがつながり

こんなこともありました。「おやじ、醤油工場は時間かかるからゆっくり建てよう、まずは、つゆ・たれ・ポン酢工場から早く建てよう」って、個人ファンドでお金を集めようって話が来た「何だそれは」と大げんか。ところが開けてみたらたったの2ヶ月半で、どこのファンドよりも早く、5千万円も集まっちゃった。そのときもせがれと何度けんかしたことか。このファンドなんですが、「中身見たらおやじ泣くぞ。ひとり1万円2万円の人が800人でほとんど20代なんだよ!」…1万2万というけれど、彼らにとっちゃ大金だ、しかもその20代の人たちが、メル友で集まってツアーを組んで月に1回八木澤にお買い物に来るんです。なんと新しい顧客が生まれたんです

こう考えると、震災で国会議員さんは、言ったら悪いが、いちばんアテにならなかった。それでハラもたてた。でも今はハラはたたないですよ。アテにしていないから。アテにするほうが間違っていた。何を言いたいかというと、アテにもしてない一般の人たちがどれだけうちを助けてくだすったか、日本人てやさしい、ということをつくづく思ったということなんです

取り引きではなく取り組みを

…ほんものの醤油、ほんものの結びつき

私は、震災前は地元の原料で自分で原料もつくって食品づくりをしよう、地産地消自立して、大豆も米も小麦も、漬物用の自根きゅうりもつくってきた。無農薬で挑戦して皆さんより3分の1しかとれず、皆さんこれが理想と現実の畑の違いですなんて言われた。だけど土作りを勉強して、途中で気がついた。これぁもろみ造りと理屈がそっくりだと。で、5年たったらみんなと同じ量でつくれるようになった。農薬使わずに。素人だからいろんな実験した、海水もかけた。海水かけるだけでみんなはキチガイになったっていわれた。でもいちばん大事なのは挑戦することだ

ホンモノの醤油というのは、地元の大豆と醤油を使って造るのがホンモノだけど、1升3千円もするものをつくっちゃったことがある。そしたらおやじが初めて「うちの道楽息子が初めてまともなことをした」といってくれた。男の散髪料、今は2千5百円から3千円。明治時代から醤油屋だって味噌屋だって、もっと農家を大事にした、商社もなければ農協もなかった時代。いいものをつくってくれる農家さんに納得がいく値段を払って大事にしていた。そのときの醤油1升と男の散髪料は同じ値段だったんです

僕も父親に初めて教わったんですから。見つかった壊れかけの杉樽だって、あれも150年前の、ポランさんで、八木澤商店に杉樽基金といって、またまともな醤油を造らせようというとんでもない計画を建てた人がここにいる(笑)。そういうことをやられると、やらざるを得なくなってくる。でもありがたいねぇ、これがポランさんなんだね

このポランさんが、特にポランの会員さんというのは、食に対する意識の非常に高い人だ。だから生産者がポランに売って買ってもらってるって、そんな話じゃあない。日本の食をもう一回真っ正面からみんなで変えなきゃ。買ってくださる人も、我々生産者も、ポランさんも、みんなで「取り引きじゃなくて取り組み」という考えで、日本の農業を変えていかなきゃいけないと思っています。もしかすると、スーパーの商品ばっか買ってる人で、ポランの商品高いよっていう人もいるかも知れない。でもそれは違う。まともなんだ。まともなものをまともな値段で買う運動をしないと、日本はおかしなことになるよ。ついでに言います、60%外国に食べ物を頼っていていいのかと

食の地産地消と言ってきたが、エネルギーも地元のエネルギーを使わなきゃダメだ。やっぱり木質バイオがいいんじゃないか。うちの本店にはペレットストーブがあります。10kg400円で1日以上持つ。ペチカじゃなくても暖炉じゃなくてもいい。震災後、ものすごく木を切ってるんです、私の農業の先生の本職が木こりなんですが、塩水を被った木を使ってはいけないという。そのじいさん、国が切らない木をオレがもらえばいいんだろうと、その木で家を建てたらまあ立派な家ができた

私は学生に今こう言っています。プラス思考前向き、って言ったら、河野さん、今の学生にその言い方で意味が通じないわけではないけど、「ポジティブ」って言ってくださいと。マイナス思考は「ネガティブ」と。そういうことで河野さんにニックネームをつけました。おれたちおとなは反対だ賛成だの言っても完全に国に騙されてるんだな。安心で安上がりであんな便利なものはないという安全神話に踊らされた。今、小学生でもあんな危険なものはないって知っている。大学生の君たちが真正面から捉えなきゃだめだよ。一軒一軒が自力で自分の発電を考えたらいいだろう。それを日本中の中小企業者が本気でやったら、その時に原発いるだの電力足りないだのという議論ではなくなるでしょう。一番大事なのは、自立をする。どう自立するかを考えたら、エネルギーも、太陽光ではなくて、木質バイオになる。すると雇用も出てくる

ありがとうとおかげさま…9代目が掲げた八木澤商店の経営理念

実は中小企業家同友会の仲間、一番最初に、廃業したいといった仲間が、今はプレハブですが、もうすぐきっとほんとうの建物を建てる、そのカレが、詩人でもないのに、素直に書いた詩を、気仙弁で詠みます…

おらあやっぱりここがいい
大津波でぜんぶなくなっても
地震でぼっこされても
やっぱこの町が好きだ
やっぱここにいてっ
ここ一番だ
二度と同じ景色な見られねども
二度と同じ建物は建たねべども
おらどの目にすっかり焼きついてる
忘れることのねええの景色
おらどの町、やっぱりここがいい

……震災2年目の9月まで、名刺の裏は何だったか……

ふるさとは負けない
ひとつ生きるひとつ暮らす
共に暮らしを守る
ひとつ人間らしく魅力的に

2年目の10月から、昔の経営理念に戻しました。この経営理念を作るときもせがれと大げんかをした。うちみたいなちっちゃいところ経営理念なんか掲げなくったっていい。「経営理念も掲げられねえような会社は会社じゃねぇ」ってけんかしたんです。ばかやろおれが経営理念だって言っちゃったんですよ。ところがせがれは、その経営理念をね、10年未満の若手と喧々諤々、会議してつくった。あえて私は意地張ってその会議には出ない、今でもこうやって読まないと言えないけれど、うちの社員全員そらで言えます…

経営理念

  1. わたしたちは食を通して感謝する心を広げ、地域の自然とともにすこやかに暮らせる社会を作ります
  1. わたいたちは和の心を持って共に学び、誠実でやさしい食の匠をめざします
  1. わたしたちは醤(ひしお)の醸造文化を進化させ伝承することでいのちの輪を未来につないでいきます

ご興味のある方は、この理念を書いた名刺を差し上げたいと思います。ありがとうとおかげさまという言葉、もう70になりますが、この3年間で、67歳までより使いましたね。で、大学生に言います、電気ない水ないガソリンない電話通じない生活したけど、君たちはそれがあるのが当たり前。ものすごい幸せなんだよ。ぼくは、ほんとうは今しあわせなんだ。平々凡々としてっていうけど、あたり前の暮らしがどれだけ幸せかということに気がついた時に、そういえばあの陸前高田どうなったかな、と、思い出していただければ幸いでございます。ありがとうございました

トークショー 岩手陸前高田 八木澤商店 八代目 河野和義会長 大いに語る

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