ポラーノの広場

前十七等官 レオーノキュースト 誌
宮沢 賢治 訳述

そのころわたくしはモリーオ市の博物局に勤めて居<を>りました。

十八等官でしたから役所のなかでもずうっと下の方でしたし、俸給もほんのわづかでしたが、受持ちが標本の採集や整理で、生れ付き、好きなことでしたから、わたくしは毎日ずゐいぶん愉快にはたらきました。殊にそのころ、モリーオ市では競馬場を植物園に拵<こしら>へ直すといふので、その景色のいゝまわりにアカシヤを植ゑ込んだ広い地面が、切符売場や信号所の建物のついたまゝわたくしどもの役所の方へまはって来たものですから、わたくしはすぐ宿直といふ名前で月賦で買った小さな蓄音器と二十枚ばかりのレコードをもってその番小屋にひとり住むことになりました。わたくしはそこの馬を置く場所に板で小さなしきゐをつけて一疋<ぴき>の山羊<やぎ>を飼ひました。毎朝その乳をしぼってつめたいパンをひたしてたべ、それから黒い革のかばんへすこしの書類や雑誌を入れ、靴もきれいにみがき、並木のポプラの影法師を大股にわたって市の役所へ出て行くのでした。あのイーハトーヴォのすきとほった風、夏でも底に冷たさをもつ青いそら、うつくしい森で飾られたモリーオ市、郊外のぎらぎらひかる草の波、

またそのなかでいっしょになったたくさんのひとたち、ファゼーロとロザーロ、羊飼のミーロや顔の赤いこどもたち、地主のテーモ、山猫<やまねこ>博士のボーガント・デステゥパーゴなど、いまこの暗い巨<おほ>きな石の建物のなかで考へてゐるとみんななつかしい青いむかし風の幻燈のやうに思はれます。

では、わたくしはいくつかの小さなみだしをつけながらしづかにあの年のイーハトーヴォの五月から十月までを書きつけませう。

一、遁<に>げた山羊

五月のしまひの日曜でした。わたくしは賑<にぎ>やかな市の教会の鐘の音で眼をさましました。もう日はよほど登って、まわりはみんなきらきらしてゐました。時計を見るとちゃうど六時でした。わたくしはすぐチョッキだけ着て山羊<やぎ>を見に行きました。すると小屋のなかはしんとして藁<わら>が凹<へこ>んでゐるだけであのみじかい角も白い髪も見えませんでした。

「あんまりいゝ天気なもんだから大将ひとりででかけたな。」

わたくしは半分わらふやうに半分つぶやくやうにしながら、向ふの信号所からいつも放して遊ばせる輪道の内側の野原、ポプラの中から顔をだしてゐる市はずれの白い教会の塔までぐるっと見まはしました。けれどもどこにもあの白い頭もせなかも見えてゐませんでした。うまやを一まはりしてみましたがやっぱりどこにも居ませんでした。

「いったい山羊は馬だの犬のやうに前居たところや来る道をおぼえてゐて、そこへ戻ってゐるといふことがあるのかなあ。」わたくしはひとりで考へました。さあ、さう思ふと早くそれを知りたくてたまらなくなりました。けれども役所のなかとちがって競馬場には物知りの年とった書記も居なければそんなことを書いた辞書もそこらにありませんでしたから、わたくしは何といふことなしに輪道を半分通ってそれからこの前山羊が村の人に連れられて来た路<みち>をそのまゝ野原の方へあるきだしました。

そこらの畑では燕麦もライ麦ももう芽をだしてゐましたし、これから何か蒔<ま>くとこらしくあたらしく掘り起されてゐるところもありました。

そしていつかわたくしは町から西南の方の村へ行くみちへはひってしまってゐました。

向ふからは黒い着物に白いきれをかぶった百姓のおかみさんたちが、たくさん歩いてくるようすなのです。わたくしは気がついてもう戻ってしまはうと思ひました。全くの起きたまゝチョッキだけ着て顔もあらはず帽子もかむらず山羊が居るかどうかもわからない広い畑のまんなかへ飛びだして来てゐるのです。けれどもそのときはもう戻るのも工合<ぐあひ>が悪くなってしまってゐました。向ふの人たちがぢき顔の見えるところまで来てゐるのです。わたくしは思ひ切って勢よく歩いて行っておじぎをして尋ねました。

「こっちへ山羊が迷って来てゐませんでしたでせうか。」

女の人たちはみんな立ちどまってしまひました。教会へ行くところらしくバイブルも持ってゐたのです。

「こっちへ山羊が一疋迷って来たんですが、ご覧になりませんでしたでせうか。」

みんなは顔を見合せました。それから一人が答へました。

「さあ、わたくしどもはまっすぐに来ただけですから。」

さうだ、山羊が迷って出たときに人のやうにみちを歩くのではないのだな。わたくしはおじぎしました。

「いや、ありがたうございました。」

女たちは行ってしまひました。もう戻ろう、けれどもいま戻るとあの女の人たちを通り越して行かなければならない、まあ散歩のつもりでもすこし行かう、けれどもさっぱりたよりのない散歩だなあ、わたくしはひとりでにがわらひしました。そのときまた向ふから二十五六になる若者と十七ばかりのこどもとスコープをかついでやって来ました。もう仕方ない、みかけだけにたづねて見よう、わたくしはまたおじぎしました。

「山羊を一疋迷ってこっちへ来たのですがごらんになりませんでしたでせうか。」

「山羊ですって。いゝえ。連れてあるいて遁<に>げたのですか。」

「いゝえ、小屋から遁げたんです。いや、ありがたうございました。」わたくしはおじぎをしてまたあるきだしました。するとそのこどもがうしろで云<い>ひました。

「あゝ、向ふから誰<たれ>か来るなあ。あれさうでないかなあ。」

わたくしはふりかへって指ざされた私の行くはうを見ました。

「ファゼーロだな、けれども山羊かなあ。」

「山羊だよ。あゝきっとあれだ。ファゼーロがいまごろ山羊なんぞ連れてあるく筈<はず>ないんだから。」

たしかにそれは山羊でした。けれどもそれは別ので売りに町へ行くのかもしれない、まああの指導標のところまで行って見よう、わたくしはそっちへ近づいて行きました。一人の頬<ほほ>の赤い、チョッキだけ着た十七ばかりの子どもが何だかわたくしのらしい雌の山羊の首に帯皮をつけてはじを持ってわらひながらわたくしに近よって来ました。どうもわたくしのらしいけれども何と云はうと思ひながらわたくしは立ちどまりました。すると子どもも立ちどまってわたくしにおじぎしました。

「この山羊はおまへんだらう。」

「さうらしいねえ。」

「ぼく出てきたらたった一疋で迷ってゐたんだ。」

「山羊もやっぱり犬のやうに一ぺんあるいた道をおぼえてゐるのかねえ。」

「おぼえてるとも。ぢゃ。やるよ。」

「あゝ、ほんたうにありがたう。わたしはねえ、顔も洗はないで探しに来たんだ。」

「そんなに遠くから来たの。」

「あゝわたしは競馬場に居るからねえ。」

「あすこから?」子どもは山羊の首から帯皮をとりながら畑の向ふでかげろふにぎらぎらゆれてゐるやっと青みがかったアカシヤの列を見ました。

「すゐぶん遠くまで来たもんだねえ。」

「あゝ、ぢゃ、僕こっちへ行くんだから。さよなら。」

「あ、ちょっと待って。ぼくなにかあげたいんだけれどもなんにもなくてねえ。」

「いゝや、ぼくなんにもいらないんだ。山羊を連れてくるのは面白かった。」

「だけれどねぇ、それではわたしが気が済まないんだよ。さうだ、あなたは鎖はいらないの。」わたくしは時計の鎖ならなくても済むと思ひながら銀の鎖をはづしました。

「いゝや。」

「磁石もついてるよ。」

すると子どもは顔をぱっと熱<ほて>らせましたがまたあたりまへになって

「だめだ、磁石ぢゃ探せないから。」とぼんやり云ひました。

「磁石で探せないって?」私はびっくりしてたづねました。

「あゝ。」子どもは何か心もちのなかにかくしてゐたことを見られたといふやうに少しあわてました。

「何を探すっていふの?」

子どもはしばらくちゅうちょしてゐましたがたうとう思ひ切ったらしく云ひました。

「ポラーノの広場。」

「ポラーノの広場? はてな、聞いたことがあるやうだなあ。何だったらうねえ、ポラーノの広場。」

「昔ばなしなんだけれどもこのごろまたあるんだ。」

「あゝさうだ、わたしも小さいとき何べんも聞いた。野はらのまんなかの祭のあるとこだらう。あのつめくさの花の番号を数へて行くといふのだらう。」

「あゝ、それは昔ばなしなんだ。けれども、どうもこの頃もあるらしいんだよ。」

「どうして。」

「だってぼくたちが夜野原へ出てゐるとどこかでそんな音がするんだもの。」

「音のする方へ行ったらいゝんでないか。」

「みんなで何べんも行ったけれどもわからなくなるんだよ。」

「だって、聞えるくらゐならそんなに遠い筈<はず>はないねえ。」

「いゝや、イーハトーヴォの野原は広いんだよ。霧のある日ならミーロだって迷ふよ。」

「さうさねえ、だけど地図もあるからねえ。」

「野原の地図ができてるの。」

「あゝ、きっと四枚ぐらゐにまたがってるねえ。」

「その地図で見ると路でも林でもみんなわかるの。」

「いくらか変ってゐるかもしれないがまあ大体はわかるだらう。ぢゃ、お礼にその地図を買って送ってあげようか。」

「うん、」子どもは顔を赤くして云ひました。

「きみはファゼーロって云ふんだね。宛名<あてな>をどう書いたらいゝかねえ。」

「ぼく、ひまを見付けておまへんうちへ行くよ。」

「ひまって今日でもいゝよ。」

「ぼく仕事があるんだ。」

「今日は日曜ぢゃないか。」

「いゝえ、ぼくには日曜はないんだ。」

「どうして。」

「だって仕事をしなけぁ、」

「仕事ってきみのかい。」

「旦那<だんな>んさ。みんなもう行って畦<あぜ>へはひってるんだ。小麦の草をとってゐるよ。」

「ぢゃきみは主人のとこに雇はれてゐるんだね。」


「ああ、」

「お父さんたちは。」

「ない。」

「兄さんか誰<たれ>かは」

「姉さんがゐる。」

「どこに、」

「やっぱり旦那んとこに。」

「さうかねえ、」

「だけど姉さんは山猫<やまねこ>博士のとこへ行くかも知れないよ。」

「何だい。その山猫博士といふのは。」

「あだ名なんだ。ほんたうはデステゥパーゴって云ふんだ。」

「デステゥパーゴ? ボー、ガント、デステゥパーゴかい。県の議員の」

「えゝ。」

「あいつは悪いやつだぜ。あいつのうちがこっちの方にあるのかい。」

「ああぼくの旦那のうちから見え……」

「おい、こゝら、何をぐづぐづしてるんだ。」うしろで大きな声がしました。見ると一人の赤い帽子をかぶった年老<としよ>りの頑丈<ぐわんぢやう>さうな百姓が革むちをもって怒って立ってゐました。

「もう一くぎりも働いたかと思って来て見るとまだこんなところに立ってしゃべくってやがる。早く仕事へ行け。」

「はい、ぢゃさよなら。」

「あゝさよなら、ぼくは役所からいつでも五時半には帰ってゐるからね。」

「えゝ、」ファゼーロは水壺<みづつぼ>とホーをもって急いで向ふの路へはひって行きました。百姓はこんどはわたくしに云ひました。

「あなたはどこのお方だか知らないが、これからわしの仕事にいらないお世話をして貰<もら>ひたくないもんですな。」

「いや、わたしはね、山羊に遁げられてそれをたづねて来たらあの子どもさんが連れて来てゐたもんだからお礼を云ってゐたんです。」

「いや、結構ですよ。山羊といふやつはどうも足があって歩くんでね。やいファゼーロ、かけて行け、馬鹿かけて行けったら。」百姓は顔をまっ赤にして手をあげて革むちをパチッと鳴らしました。

「人を使ふのに革むちを鳴らすなんて乱暴ぢゃないですか。」

百姓はわざと顔を前につき出して云ひました。

「このむちですかい。あなたはこの鞭<むち>のことを仰<おつしや>ったんですか。この鞭はねえ、人を使ふ鞭ではありませんよ。馬を追ふ鞭ですよ。あっちへ馬が四疋も行ってますからねえ。そらねこんなふうに。」百姓はわたくしの顔の前でパチッパチッとはげしく鞭を鳴らしました。わたくしはさぁっと血が頭にのぼるのを感じました。けれどもまたいま争ふときでないと考へて山羊の方を見ました。山羊はあちこち草をたべながら向ふに行ってゐました。百姓はファゼーロの行った方へ行きわたくしも山羊の方へ歩きだしました。山羊に追ひついてから、ふりかへって見ますと畑いちめん紺いろの地平線までにぎらぎらのかげろふで百姓の赤い頭巾<づきん>もみんなごちゃごちゃにゆれてゐました。その向ふの一そう烈<はげ>しいかげろふの中でピカッと白くひかる農具と黒い影法師のやうにあるいてゐる馬とファゼーロかそれともほかのこどもかしきりに手をふって馬をうごかしてゐるのをわたくしは見ました。

二、つめくさのあかり

それからちゃうど十日ばかりたって、夕方、わたくしが役所から帰って両手でカフスをはづしてゐましたら、いきなりあのファゼーロが戸口から顔を出しました。そしてわたくしがまだびっくりしてゐるうちに

「たうとう来たよ、今晩は」と云ひました。

「あゝ、先頃<せんころ>はありがたう。地図はちゃんと仕度しておいたよ。この前の音は今でもするの。」

「するとも、昨夜<ゆふべ>なんかとてもひどいんだ。今夜はもうぼくどうしても探さうとおもって羊飼のミーロと二人で出て来たんだ。」

「うちの方は大丈夫かい。」

「うん、」ファゼーロは何だか少しあいまいに返事しました。

「きみの旦那<だんな>はなかなか恐<こは>い人だねえ、何て云ふんだ。」

「テーモだよ。」

「テーモ、やっぱし何だか聞いたやうな名だなあ。」

「聞いたかも知れない。あちこち役所へ果物だの野菜だの納めてゐるんだから。」

「さうかねえ。とにかく地図はこれだよ。」わたくしは戸口に買って置いた地図をひろげました。

「ミーロも呼んでもいゝかい。」

「誰か来てるのか、いゝとも。」

「ミーロ、おいで、地図を見よう。」

すると山羊小屋の中からファゼーロよりも三つばかり年上のちゃんときゃはんをはいてぼろぼろになった青い皮の上着を着た顔いろのいゝわか者が出てきてわたくしにおじぎしました。

「おや、ぼくは地図をよくわからないなあ、どっちが西だらう。」

「上の方が北だよ。さう置いてごらん。」

ファゼーロはおもての景色と合せて地図を床に置きました。

「そら、こっちが東でこっちが西さ。いまぼくらのゐるのはこゝだよ。この円くなった競馬場のこゝのとこさ。」

「乾溜<かんりう>工場はどれだらう。」ミーロが云ひました。

「乾溜工場って、この地図にはないね、こっちかしら。」わたくしは別のをひろげました。

「ないなあ、いつころからあるんだい。」

「去年からだよ。」

「それぢゃないんだ。この地図はもっと前に測量したんだから。その工場はどんなとこにあるの。」

「ムラードの森のはづれだよ。」

「あゝ、これかしら、何の木だい、楢<なら>か樺<かば>だらう。唐檜<たうひ>やサイプレスではないね。」

「楢と樺だよ。あゝこれか。ぼくはねえ、どうも昨夜<ゆふべ>の音はこゝから聞えたと思ふんだ。」

「行かう行かう、行って見よう。」ファゼーロはもう地図をもってはねあがりました。

「わたしも行っていゝかい。」

「いゝともぼくさう云ひたくてゐたんだ。」

「ぢゃわたしも行かう。ちょっと待って。」わたくしは大急ぎで仕度をしました。どうせ月は出るけれども地図が見えないといけないと思ってガラス函<ばこ>のちょうちんも持ちました。

「さあ行かう。」わたくしはばたんと戸をしめてファゼーロとミーロのあとに立ちました。

日はもう落ちて空は青く古い池のやうになってゐました。

そこらの草もアカシヤの木も一日のなかでいちばん青く見えるときでした。

「ポラーノの広場へ行けば何があるって云ふの?」

ミーロについて行きながらわたくしはファゼーロにたづねました。

「オーケストラでもお酒でも何でもあるって。ぼくお酒なんか呑<の>みたくはないけれどみんなを連れて行きたいんだよ。」

「さうだって云ったねえ、わたしも小さいときそんなこと聞いたよ。」

「それに第一にね、そこへ行くと誰でも上手に歌えるやうになるって。」

「さうさうさう云った。だけどそんなことがいまでもほんたうにあるかねえ。」

「だって聞えるんだもの。ぼくは何もいらないけれども上手にうたひたいんだよ。ねえ。ミーロだってさうだらう。」

「うん。」ミーロもうなづきました。元来ミーロなんかよほど歌がうまいのだらうとわたくしは思ひました。

わたくしどもはもう競馬場のまん中を横截<よこぎ>ってしまってまっすぐに野原へ行く小さなみちへかかってゐました。ふりかへってみるとわたくしの家がかなり小さく黄いろにひかってゐました。

「ぼくは小さいときはいつでもいまごろ、野原へ遊びに出た。」ファゼーロが云ひました。

「さうかねえ、」

「するとお母さんが行っておいで、ふくろふにだまされないやうにおしって云ふんだ。」

「何て云ふって。」

「お母さんがね、行っておいで、ふくろふにだまされないやうにおしって云ふんだよ。」

「ふくろふに?」

「うん、ふくろふにさ。それはね、僕もっと小さいとき、それはもうこんなに小さいときなんだ、野原に出たらう。すると遠くで誰<たれ>だか食べた、誰だか食べた、といふものがあったんだ。それがふくろふだったのよ。僕ばかな小さいときだから、ずんずん行ったんだ。そして林の中へはひってみちがわからなくなって泣いた。それからいつでもお母さんさう云ったんだ。」

「お母さんはいまどこにゐるの。」わたくしはこの前のことを思ひだしながらそっとたづねました。

「居ない。」ファゼーロはかなしさうに云ひました。

「この前きみは姉さんがデステゥパーゴのとこへ行くかもしれないって云ったねえ。」

「うん、姉さんは行きたくないんだよ。だけど旦那<だんな>が行けって云ふんだ。」

「テーモがかい。」

「うん、旦那は山猫博士がこはいんだからねえ。」

「なぜ山猫博士って云ふんだ。」

「ぼくよくわからない。ミーロは知ってるの?」

「うん、」ミーロはこっちをふりむいて云ひました。

「あいつは山猫を釣ってあるいて外国へ売る商売なんだって。」

「山猫を? ぢゃ動物園の商売かい。」

「動物園ぢゃないなあ。」ミローもわからないといふふうにだまってしまひました。そのときはもう、あたりはとっぷりくらくなって西の地平線の上が古い池の水あかりのやうに青くひかるきりそこらの草も青黝<あをぐろ>くかはってゐました。

「おや、つめくさのあかりがついたよ。」ファゼーロが叫びました。

なるほど向ふの黒い草むらのなかに小さな円いぼんぼりのやうな白いつめくさの花があっちにもこっちにもならび、そこらはむっとした蜂蜜<はちみつ>のかをりでいっぱいでした。

「あのあかりはねえ、そばでよく見るとまるで小さな蛾<が>の形の青じろいあかりの集りだよ」

「さうかねえ、わたしはたった一つのあかしだと思ってゐた。」

「そら、ね、ごらん、さうだらう、それに番号がついてるんだよ。」

わたしたちはしゃがんで花を見ました。なるほど一つ一つの花にはさう思へばさうといふやうな小さな茶いろの算用数字みたいなものが書いてありました。

「ミーロ、いくらだい。」

「一千二百五十六かな、いや一万七千五十八かなあ。」

「ぼくのは三千四百二十……六だよ。」

「そんなにはっきり書いてあるかねえ。」わたくしにはどうしてもそんなにはっきりは読むことができませんでした。けれども花のあかりはあっちにもこっちにももうそこらいっぱいでした。

「三千八百六十六、五千まで数へればいゝんだからポラーノの広場はもうぢきそこらな筈<はず>なんだけれども。」

「だってさっぱりきみらの云ふやうないゝ音はしないんぢゃないか。」

「いまに聞えるよ。こいつは二千五百五十六だ。」

「その数字を数へるといふのはきっとだめだよ。」

たうとうわたくしは云ひました。

「どうして?」ファゼーロもミーロもまっすぐに立ってわたくしを見てゐます。

「なぜって第一わたしは花にそんな数字が書いてあるのでなくてそれはこっちの目のまちがひだらうと思ふんだ。もしほんたうにいまにその音が聞えてきたらまっすぐにそっちに行くのがいちばんいゝだらうと思ふんだ。とにかくもっとさきへ行ってようぢゃないか。こゝらならわたしだって度々来てゐるんだから。こゝらはまだあの岐<わか>れみちのまっ北ぐらゐにしかなってないんだ。ムラードの森なんか、まだよっぽどあるだらう。ねえ、ミーロ君。」

「よっぽどあるとも。」

「ぢゃ、行かう、まあもっと行って花の番号を見てごらん。やっぱり二千とか三千とかだから。」

ミーロはうなづいてあるきだしました。ファゼーロもだまってついて行きました。わたくしどもはじつにいっぱいに青じろいあかりをつけて向ふの方はまるで不思議な縞物<しまもの>のやうに幾条<いくすぢ>にも縞になった野原をだまってどんどんあるきました。その野原のはづれのまっ黒な地平線の上では、そらがだんだんにぶい鋼のいろに変っていくつかの小さな星もうかんできましたしそこらの空気もいよいよ甘くなりました。そのうち何だかわたくしどもの影が前の方へ落ちてゐるやうなのでうしろを振り向いて見ますと、おゝ、はるかなモリーオの市のぼぉっとにごった灯照<ほで>りのなかから十六日の青い月が奇体に平べったくなって半分のぞいてゐるのです。わたくしどもは思はず声をあげました。ファゼーロはそっちへ挨拶するやうに両手をあげてはねあがりました。

にはかにぼんやり青白い野原の向ふで何かセロかバスのやうな顫<ふる>ひがしづかに起りました。

「そら、ね、そら。」ファゼーロがわたくしの手を叩<たた>きました。わたくしもまっすぐに立って耳をすましました。音はしづかにしづかに呟<つぶ>やくやうにふるへてゐます。けれどもいったいどっちの方か、わたくしは呆<あき>れてつっ立ってしまひました。もう南でも西でも北でもわたくしどもの来た方でもさう思って聞くと地面の中でも高くなったり低くなったりたのしさうにたのしさうにその音が鳴ってゐるのです。

それはまた一つや二つではないやうでした。消えたりもつれたり一所になったり何とも云はれないのです。

「まるで昔からのはなしの通りだねえ。わたしはもうわからなくなってしまった。」

「番号はこゝらもやっぱり二千三百ぐらゐだよ。」ファゼーロが月が出て一そう明るくなったつめくさの灯をしらべて云ひました。

「番号なんかあてにならないよ。」わたくしも屈<かが>みました。そのときわたくしは一つの花のあかしからも一つの花へ移って行く黒い小さな蜂<はち>を見ました。

「ああ、蜂が、ごらん、さっきからぶんぶんふるへてゐるのは、月が出たので蜂が働きだしたのだよ。ごらん、もう野原いっぱい蜂がゐるんだ。」これでわかったらうとわたくしは思ひましたがミーロもファゼーロもだまってしまってなかなか承知しませんでした。

「ねえ、蜂だらう。だからあんなに野原中どこから来るか知れなかったんだよ。」

ミーロがやっと云ひました。

「さうでないよ。蜂ならぼくはずっと前から知ってゐるんだ。けれども昨夜<ゆふべ>はもっとはっきり人の笑ひ声などまで聞えたんだ。」

「人の笑ひ声、太い声でかい。」

「いゝや。」

「さうかねえ。」わたくしはまたわからなくなって腕を組んで立ちあがってしまひました。

そのときでした。野原のずうっと西北の方でぼぉとたしかにトローンボーンかバスの音がきこえました。わたくしはきっとそっちを向きました。するとまた西の方でもきこえるのです。わたくしはおもはず身ぶるひしました。野原ぜんたいに誰か魔術でもかけてゐるかさうでなければ昔からの云ひ伝へ通りひるには何もない野原のまんなかに不思議に楽しいポラーノの広場ができるのか、わたくしは却<かへ>ってひるの間役所で標本に札をつけたり書類を所長のところへ持って行ったりしてゐたことが別の世界のことのやうに思はれてきました。

「やっぱり何かあるのかねえ。」

「あるよ。だってまだこれどこではないんだもの。」

「こんなに方角がわからないとすればやっぱり昔の伝説のやうにあかしの番号を読んで行かなければならないんだが、ぜんたい、いくらまで数へて行けばポラーノの広場に着くって?」

「五千だよ。」

「五千? こゝはいくらと云ったねえ。」

「三千ぐらゐだよ。」

「ぢゃ、北へ行けば数がふえるか西へ行けばふえるかしらべて見ようか。」

その時でした。

「ハッハッハ。お前たちもポラーノの広場へ行きてえのか。」うしろで大きな声で笑ふものがゐました。

「何だい、山猫の馬車別当め。」ミーロが云ひました。

「三人で這<は>ひまはって、あかりの数を数へてるんだな。はっはっはっ、」その足のまがった片眼の爺<ぢ い>さんは上着のポケットに手を入れたまゝまた高くわらひました。

「数へてるさ、そんならぢいさんは知ってるかい。いまでもポラーノの広場はあるかい。」ファゼーロが訊<き>きました。

「あるさ。あるにはあるけれどもお前らのたづねてゐるやうな、這ひつくばって花の数を数へて行くやうなそんなポラーノの広場はねえよ。」

「そんならどんなんがあるんだい。」

「もっといゝのがあるよ。」

「どんなんだい。」

「まあお前たちには用がなかろうぜ。」ぢいさんはのどをくびっと鳴らしました。

「ぢいさんはしじゅう行くかい。」

「行かねえ訳でもねえよ、いゝとこだからなあ。」

「ぢいさんは今夜は酔ってるねえ。」

「ああ上等の藁酒<わらざけ>をやったからな。」ぢいさんはまたのどをくびっと鳴らしました。

「ぼくたちは行けないだらうかねえ。」

「行けねえよ、あっいけねえ、たうとう悪魔にやられた。」ぢいさんは額を押へてよろよろしました。甲<かぶと>むしが飛んで来てぶっつかったやうすでした。ミーロが云ひました。

「ぢいさん、ポラーノの広場の方角を教へてくれたら、おいらぁ、ぢいさんと悪魔の歌をうたってきかせるぜ。」

「縁起でもねえ、まあもっと這ひまはって見ねえ。」ぢいさんはぷりぷり怒ってぐんぐんつめくさの上をわたって南の方へ行ってしまひました。

「ぢいさん。お待ちよ。また馬を冷しに連れてってやるからさ。」ファゼーロが叫びましたがぢいさんはどんどん行ってしまひました。ミーロはしばらくだまってゐましたがたうとうこらへきれないらしく「おいおれ歌ふからな」と云ひだしました。

ファゼーロはそれどころではないやうすでしたが、わたくしは前からミーロは歌がうまいだらうと思ってゐたので手を叩<たた>きました。ミーロは上着やシャツの上のぼたんをはづして息をすこし吸ひました。

「ゐのししむしゃのかぶとむし
つきのあかりもつめくさの
ともすあかりも眼に入らず
めくらめっぽに飛んで来て
山猫馬丁につきあたり
あわててひょろひょろ
落ちるをやっとふみとまり
いそいでかぶとをしめなほし
月のあかりもつめくさの
ともすあかりも目に入らず
飛んでもない方に飛んで行く。」

ところがそのぢいさんの行った方から細い高い声で

「ファゼーロ、ファゼーロ。」と呼んでゐるようすです。

「あゝ、姉さん、いま行くよ。」ファゼーロがそっちへ向いて高く叫びました。向ふの声はやみました。

「だめだなあ、きっと旦那<だんな>が呼んでるんだ。早く森まで行ってみればよかったねえ。」

ミーロが俄<には>かに勢がついて早口に云ひました。

「大丈夫だよ。おれはね、どうもあの馬車別当だの町の乾物屋のおやぢだのあやしいと思ってゐたんだ。このごろはいつでも酔ってゐるんだ。きっとあいつらがポラーノの広場を知ってるぜ。それにおれは野原でをかしな風に枯草を積んだ荷馬車に何べんもあってるんだ。ファゼーロ、お前ね、なんにも知らないふりして今夜はうちへ帰って寝ろ。おれはきっと五六日のうちにポラーノの広場をさがすから。」

「さうかい。ぼくにはよくわからないなあ。」

そのときまた声がしました。

「ファゼーロ、おいで。お使ひに町へ行くんだって。」

「あゝいま行くよ。ぼくは旦那のとこへまっすぐに行くんだが、おまへはひとりで競馬場へ帰れるかい。」

「帰れるとも、こゝらはひるまならたびたび来るとこなんだ。ぢゃ、地図はあげるよ。」

「うん、ミーロへやってかう。ぼくひるは野原へ来るひまがないんだから。」

そのとき向ふのつめくさの花と月のあかりのなかにうつくしい娘が立ってゐました。

ファゼーロが云ひました。

「姉さん、この人だよ。ぼく地図をもらったよ。」

その娘はこっちへ出てこないでだまっておじぎをしました。わたくしもだまっておじぎをしました。

「ぢゃ、さよなら。早く行かなくちゃ」ファゼーロは走りだしました。

ロザーロはもいちどわたくしどもに挨拶してそのあとから急いで行きました。ミーロはだまって北の方を向いて耳にたなごころをあててゐました。わたくしはポラーノの広場といふのはこういふ場所をそのまゝ云ふのだ、馬車別当だのミーロだのまだ夢からさめないんだと思ひながら云ひました。

「ミーロ、おまへの歌は上手だよ。わざわざポラーノの広場まで習ひに行かなくてもいゝや。ぢゃさよなら。」

ミーロは、ていねいにおじぎをしました。わたくしはそしてそのうつくしい野原を胸いっぱいに蜂蜜のかをりを吸ひながらわたくしの家の方へ帰ってきました。

三、ポラーノの広場

それからちゃうど五日目の火曜日の夕方でした。その日はわたくしは役所で死んだ北極熊を剥製<はくせい>にするかどうかについてひどく仲間と議論をして大へんむしゃくしゃしてゐましたから少し気を直すつもりで酒石酸<しゅせきさん>をつめたい水に入れて呑<の>んでゐましたらずうっと遠くですきとほった口笛が聞えました。その調子はたしかにあのファゼーロの山羊<やぎ>をつれて来たり野原を急いで行ったりする気持そっくりなのでわたくしは思はず、たうとう来たな、とつぶやきました。

やっぱりファゼーロでした。まだわたくしがその酒石酸のコップを呑みほさないうちにもう顔をまっ赤にして戸口に立ってゐました。

「わかったよ、たうとう。僕ゆふべ行くみちへすっかり方角のしるしをつけて置いた。地図で見てもわかるんだ。今夜ならもう間違なくポラーノの広場へ行ける。ミーロはひるのうちから行ってゐてぼくらを迎へに出る約束なんだ。ぼく行って見てほんたうだったらあしたはもうみんなつれて行くんだ。」

わたくしも釣り込まれて胸を躍らせました。

「さうかい、わたしも行かう。どんななりして行ったらいゝかねえ。どんな人が来てるだらうねえ。」

「どんななりでもいゝぢゃないか。早く行かう。来てる人が誰<たれ>だかぼくもわからないんだ。」

わたくしは大急ぎでネクタイを結んで新らしい夏帽子を被って外へ出ました。わたくしどもがこの前別れたところへ来たころは丁度夕方の青いあかりがつめくさにぼんやり注いでゐて、その葉の爪<つめ>の痕<あと>のやうな紋ももう見えなくなりかかったときでした。ファゼーロは爪立<つまだ>てをしてしばらくあちこち見まわしてゐましたが、俄<には>かに向ふへ走って行きました。ファゼーロはしばらく経<た>ってぴたりと止まりました。

「あ、こいつだ、そらね、」見るとそこにはファゼーロが作ったらしく一本の棒を立ててその上にボール紙で矢の形を作って北西の方を指すやうにしてありました。

「さあ、こっちへ行くんだ。向ふに小さな樺<かば>の木が二本あるだらう。あすこが次の目標なんだよ。暗くならないうちに早く行かう。」ファゼーロはどんどん走り出しました。

ほんたうにそこらではもうつめくさのあかりがつきはじめてゐました。わたくしもまたファゼーロのあとについて走りました。

「早く行かう、早く行かう、山猫の馬車別当なんかに見付かっちゃうるさいや。」

ファゼーロはふりかへってそんなことを云ひながら走りつゞけました。けれどもさっき見た二本の樺の木まではなかなかすぐではありませんでした。

ファゼーロはよく走りました。

わたくしもずゐいぶん本気に走りました。

やっとそこに着いてファゼーロが立ちどまったときは、あたりはもうすっかり夜になってゐて樺の木もまっ黒にそらにすかし出されてゐました。

つめくさの花はちゃうどその反対に明るくまるで本当の石英ラムプでできてゐるやうでした。

そしてよく見ますとこの前の晩みんなで云ったやうに一一のあかしは小さな白い蛾<が>のかたちのあかしから出来てそれが実に立派にかゞやいて居りました。処々<ところどころ>にはせいの高い赤いあかりもりんと灯<とも>りその柄の所には緑いろのしゃんとした葉もついてゐたのです。ファゼーロはすばやくその樺の木にのぼってゐました。そしてしばらく野原の西の方をながめてゐましたがいきなりぶらさがってはねおりて来ました。

「次のしるしはもう見えないんだ。けれども広場はちゃうどこゝからまっすぐ西になってゐる筈<はず>だから、あの雲の少し明るいところを目あてにして歩いて行かう。もうそんなに遠くはないんだから。」

わたくしどもはまたあるきだしました。俄かにどこからか甲虫<かぶとむし>の鋼の翅<はね>がりいんりいんと空中に張るやうな音がたくさん聞えてきました。

その音にまじってたしかに別の楽器や人のがやがや云ふ声が時々ちらっときこえてまたわからなくなりました。

しばらく行ってファゼーロがいきなり立ちどまってわたくしの腕をつかみながら西の野原のはてを指しました。わたくしもそっちをすかして見てよろよろして眼をこすりました。そこには何の木か七八本の木がじぶんのからだからひとりで光でも出すやうに青くかゞやいてそこらの空もぼんやり明るくなってゐるのでした。

「ファゼーロかい。」いきなり向ふから声がしました。

「あゝ、来たよ。やってゐるかい。」

「やってるよ。とてもにぎやかなんだ。山猫博士も来てゐるやうだぜ。」

「山猫博士?」ファゼーロはぎくっとしたやうすでした。

「けれどもいっしょに行かう。ポラーノの広場は誰だって見附けた人は行っていゝんだから。」

「よし行かう。」ファゼーロははっきり云ひました。わたくしどもはそのあかりをめあてにあるいて行きました。ミーロもファゼーロも何か大へん心配なようでした。さっぱり物も云わなくなってしまったのです。さうなるとこんどはわたくしが元気がついて来ました。一体昔ばなしの通りのことが本当にあるのだらうか、それとも何かほかのことだらうか。山猫博士がここへ来て何をしてゐるのだらうか。もうどうしても行って見たくてたまらなくなりました。殊にその日はわたくしはまだ俸給の残りを半分以上もってゐましたしもしお金を払はなければならないとしてもファゼーロとミーロにご馳走<ちそう>するぐらゐ大丈夫だと考へたのです。

「いゝよ、こんどはね、わたしについて来るんだよ。山猫博士なんか少しもこはいことはないんだから。」

わたくしはもうまっさきに立ってどんどん急ぎました。甲虫<かぶとむし>の翅<はね>の音はいよいよ高くなり青い木はその一つ一つの枝まではっきり見えて来ました。木の下では白いシャツや黒い影やみんながちらちら行ったり来たりしてゐます。誰かの片手をあげて何か云ってゐるのも見えました。

いよいよ近くなってわたくしはこれこそはもうほんもののポラーノの広場だと思ってしまひました。さっきの青いのは可成<かなり>大きなはんの木でしたがその梢<こずゑ>からはたくさんのモールが張られてその葉まできらきらひかりながらゆれてゐました。その上にはいろいろな蝶<てふ>や蛾<が>が列になってぐるぐるぐるぐる輪をかいてゐたのです。

うつくしい夏のそらには銀河がいまわたくしどもの来た方からだんだんそっちへまはりかけて南のまっくろな地平線の上のあたりではぼんやり白く爆発したやうになってゐました。つめくさのかをりやら何かさまざまの果物のかをり、みんなの笑ひ声、そのうちにたうとうみんなは組になって踊りだしました。七八人のやうではありましたがたしかにもうほんもののオーケストラが愉快さうなワルツをやりはじめました。一まはり踊りがすむとみんなはばらばらになってコップをとりました。そしてわあわあ叫びながら呑<の>みほしてゐます。その叫びは気のせゐかデステゥパーゴ万歳といふやうにもきこえました。

「あれが山猫博士だよ。」

ファゼーロが向ふの卓<テーブル>にひとり座ってがぶがぶ酒を呑<の>んでゐる黄いろの縞<しま>のシャツと赤皮の上着を着た肩はゞのひろい男を指さしました。

誰か六七人コンフェットウや紐<ひも>を投げましたのでそれは雪のやうに花のやうにきらきら光りながらそこらに降りました。

わたくしどもはもう広場の前まで来て立ちどまりました。

ちゃうどそのときデステゥパーゴがコップをもって立ちあがりました。

「おいおい給仕、なぜおれには酒を注<つ>がんか。」

すると白い服を着た給仕が周章<あわ>てて走り寄りました。

「はいはい相済みません。座っておいでだったもんですからつい。」

「座っておいでになっても立っておいでになっても我輩<わがはい>は我輩ぢゃないか。おっと、よろしい。諸君は我輩のために乾杯しようといふんだな。よしよし、ブ、ブ、ブロージット。」

そこでみんなは呑<の>みほしました。

わたくしは臆せてしまってもう帰らうかとも思ひましたがさっきファゼーロたちにあんなことを云ったものですから立ってゐることも遁<に>げることもできませんでした。どうなるかなるやうになれと思ひ切って二人をつれて帽子をとりながらあかりの中へはひりました。するとみんなは一ぺんにさわぎをやめて怪<け>げんさうな顔つきでわたくしどもを見ました。それからデステゥパーゴの方を見ました。

するとデステゥパーゴはちょっと首をまげて考へました。どうもわたくしのことを見たことはあるが考へ出せないといふ風でした。するとそばへ一人の夏フロックコートを着た男が行って何か耳うちしました。デステゥパーゴは不機嫌<ふきげん>さうな一べつをわたくしに与へてから仕方なさうにうなづきました。

するとやはりフロックを着てテーモが来てゐました。そのテーモが柄のついたガラスの杯を三つもって来て、だまってわたくしからミーロ、ファゼーロと渡しました。ファゼーロに渡しながらだまってにらみつけました。ファゼーロはたぢたぢ後退<あとずさ>りしました。給仕がそばからレッテルのない大きな瓶<びん>からいままでみんなの呑<の>んでゐた酒を注がうとしました。わたくしはそこで云ひました。

「いや、わたしたちはね、酒は呑まないんだから炭酸水でもおくれ。」

「炭酸水はありません。」給仕が云ひました。

「それならたゞの水をおくれ。」わたくしは云ひました。どういふわけかみんなしいんとして穴の明くほどわたくしどものことばかり見てゐます。わたくしも少し照れてしまひました。

「いや、デステゥパーゴさまは人に水をごちそうはなさいませんよ。」テーモが云ひました。

「ごちそうにならうといふんでないんです。野原のまんなかでつめくさのあかりを数へて来たポラーノの広場で、わたくしは渇いて水が呑みたいのです。」

もう行きがかりで仕方ないと私は思ってはっきり云ひました。

「つめくさのあかり、わっはっは。」テーモはわらひだしました。デステゥパーゴもわらひました。みんなもそのあとについてわらひました。

「ポラーノの広場もな、お気の毒だがデステゥパーゴさまのもんだよ。」テーモがしづかに云ひました。そのとき山猫博士が云ひました。

「よし、よし、まあすきなら水をやっておけ。しかしどうも水を呑むやつらが来るとポラーノの広場も少ししらっぱっくれるね。」

「はい。」テーモはおじぎをしてそれからそっとファゼーロに云ひました。

「ファゼーロ、何だって出て来たんだ。早く失せろ。帰ったら立てないくらゐ引っぱたくからさう思へ。」

ファゼーロはまた後退<あとずさ>りしました。

「その子どもは何だ。」デステゥパーゴがききました。

「ロザーロの弟でございます。」テーモがおじぎをして答へました。するとデステゥパーゴは返事をしないで向ふを向いてしまひました。そのとき楽隊が何か民謡風のものをやりはじめました。みんなはまた輪になって踊りはじめようとしました。するとデステゥパーゴが

「おいおいそいつでなしにあの〔数文字分空白〕といふやつをやってもらひたいね。」

すると楽隊のセロを持った人が

「あの曲はいま譜がありませんので。」

するとデステゥパーゴは、もうよほど酔ってゐましたが

「や、れ、やれ、やれと云ったらやらんか。」と云ひました。

楽隊は仕方なくみんな同じ譜で〔数文字分空白〕をやりはじめました。

みんなも仕方なく踊りはじめました。するとデステゥパーゴも踊りだしました。それがみんなといっしょに踊るのではなくてわざとみんなの邪魔をするやうにうごきまはるのです。

みんなは呆<あき>れてだんだんやめてぐるっとデステゥパーゴのまはりに立ってしまひました。するとデストゥパーゴはたった一人でふざけて踊りはじめました。しまひにはみんなの前を踏むやうなかたちをして行ったりいきなり喧嘩<けんくわ>でも吹っかけるときのやうにはねあがったりみんなはそのたんびにざわざわ遁<に>げるやうになりました。さっきの夏フロックを着た紳士が心配さうにもみ手をしながら何か云はうとするのですがデストゥパーゴはそれさへおどして引っこませてしまひました。楽隊はしばらくしかたなくやってゐましたがたうとう呆れてやめてしまひました。するとデステゥパーゴも労<つか>れたやうに椅子<いす>へ坐って「おい、注<つ>げ。」と云ひながらまたつゞけざまに二杯ひっかけました。するとミーロの仲間らしいものが二人で出て来てミーロに云ひました。

「おいミーロ、お前もせっかく来たんだから一つうたって聞かして呉<く>んな。」

「みんなさっきからうたったり踊ったりしてつかれてるんだから。」

ミーロは、「だめだよ、」と云ってその手をふりはらひましたが実は、はじめから歌ひたくて来たのですから、ことに楽隊の人たちが歌ふなら伴奏しようといふやうに身構へしたので、ミーロは顔いろがすっかり薔薇<ばら>いろになってしまって眼もひかり息もせはしくなってしまひました。

わたくしも思はず、やれ、やれ、立派にやるんだと云ひました。するとミーロはたうとう決心したやうにいきなり咽喉<のど>掻<か>きはだけてはんの木の下の空箱の上に立ってしまひました。

「何をやりませう。」セロの人がわらってききました。

「フローゼントリーをやってください。」

「フローゼントリー、譜もないしなあ、古い歌だなあ。」楽員たちはわらって顔を見合せてしばらく相談してゐましたが

「そいぢゃね、クラリネットの人しか知ってませんからクラリネットとね、それから鉦鼓<かね>で調子だけとりますから、それでよかったら二節目からついて歌ってください。」

みんなはパチパチ手を叩<たた>きました。テーモも首をまげて聞いてやらうといふやうにしました。

楽隊がやりました。ミーロは歌ひだしました。

「けさの六時ころ ワルトラワーラの
峠をわたしが 越えようとしたら
朝霧がそのときに ちゃうど消えかけて
一本の栗の木は 後光をだしてゐた
わたしはいたゞきの 石にこしかけて
朝めし堅ぱんを かじりはじめたら
その栗の木がにはかに ゆすれだして
降りて来たのは 二疋の電気栗鼠<りす>
わたしは急いで……」

「おいおい間違っちゃいかんよ。」山猫博士がいきなりどなりだしました。

「何だって、」ミーロはあっけにとられて云ひました。

「今朝ワルトラワラの峠に電気栗鼠など居た筈<はず>はない、それはいたちの間違ひだらう。もっとよく考へてうたってもらひたいね。」

「そんなことどうだっていゝんだい。」

ミーロは怒って壇を下りました。すると山猫博士が立ちあがりました。

「今度は我輩がうたって見せよう。こら楽隊、In the good summer time をやれ、」

楽隊の人たちは何べんもこの節をやったと見えてすぐいっしょにはじめました。山猫博士は案外うまく歌ひだしました。

「つめくさの花の 咲く晩に
ポランの広場の 夏まつり
ポランの広場の 夏まつり
酒を呑まずに 水を呑む
そんなやつらが でかけて来ると
ポランの広場も 朝になる
ポランの広場も 白ぱっくれる」

ファゼーロは泣きだしさうになってだまってきいてゐましたが、歌がすむとわたくしがつかまへるひまもなく壇にかけのぼってしまひました。

「ぼくもうたひます。いまのふしです。」

楽隊はまたはじめました。山猫博士は、

「いや、これはめづらしいことになったぞ。」と云ひながら又大きなコップで二つばかり引っかけました。ファゼーロは力いっぱいうたひだしました。

「つめくさの花の かをる夜は
ポランの広場の 夏まつり
ポランの広場の 夏まつり
酒くせのわるい 山猫が
黄いろのシャツで 出かけてゐると
ポランの広場に 雨がふる
ポランの広場に 雨がふる」

デステゥパーゴがもう憤然として立ちあがりました。

「何だ失敬な決闘をしろ決闘を。」

わたくしも思はず立ってファゼーロをうしろにかばひました。

「馬鹿を云へ、貴さまがさきに悪口を言って置いて。こんな子供に決闘だなんてことがあるもんか。おれが相手になってやらう。」

「へん、貴さまの出る幕ぢゃない。引っこんでゐろ。こいつが我輩、名誉ある県会議員を侮辱した。だから我輩はこいつへ決闘を申し込んだのだ。」

「いや、貴さまがおれの悪口を言ったのだ。おれはきさまに決闘を申し込むのだ、全体きさまはさっきから見てゐるとさもきさま一人の野原のやうに威張り返ってゐる。さあ、ピストルか刀かどっちかを撰べ。」

するとデステゥパーゴはいきなり酒をがぶっと呑<の>みました。ああファゼーロで大丈夫だ。こいつはよほど弱いんだ。わたくしは心のなかでそっとわらひました。

はたしてデステゥパーゴは空っぽな声でどなりだしました。

「黙れっ。きさまは決闘の法式も知らんな。」

「よし、酒を呑まなけぁ物を言へないやうな、そんな卑怯<ひけふ>なやつの相手は子どもでたくさんだ。おいファゼーロしっかりやれ。こんなやつは野原の松毛虫だ。おれがうしろで見てゐるからめちゃくちゃにぶん撲<なぐ>ってしまへ。」

「よし、おい、誰かおれの介添人になれ。」

そのときさっきの夏フロックが出てきました。

「まあ、まあ、あんな子供をあなたが相手になさることはありません。今夜は大切の場合なのですからどうか。」

すると山猫博士はいきなりその男を撲<なぐ>りつけました。

「やかましい。そんなことはわかってゐる。黙って居れ。おい誰かおれの介添をしろ。テーモ。」

「はい。どうぞ、おゆるしを。あとでわたくしがよく仕置きいたします。」

「やかましい。おい、クローノ、きさまやれ。」

クローノと呼ばれた百姓らしい男が

「さあ、おいらぢゃあね、」と云ってみんなのうしろへ引っ込んでしまひました。

「臆病者、おいポーショ、きさまやれ。」

「おいらぁとてもだめだよ。」

デステゥパーゴはいよいよ怒ってしまひました。

「よし介添人などいらない。さあ仕度しろ。」

「きさまも早く仕度しろ。」わたくしはファゼーロに上着をぬがせながら云ひました。

「剣でも大砲でもすきなものを持ってこいよ。」

「どっちでもきさまのすきな方にしろ。」どこにそんなものがあるんだい。と思ひながらわたくしは云ひました。

「よし、おい給仕、剣を二本持ってこい。」

すると給仕が待ってゐたやうに云ひました。

「こんな野原で剣はございません。ナイフでいけませんか。」

するとデステゥパーゴは安心したやうにしながら

「よし、持ってこい。」と声だけ高く云ひました。

「承知しました。」給仕が食事につかふナイフを二本持って来てうやうやしくデステゥパーゴにわたしました。まるで芝居だとわたくしは思ひました。ところがデステゥパーゴはていねいにその両方の刃をしらべてゐるのです。それから

「さあどっちでもいゝ方をとれ。」といって二本ともファゼーロに渡しました。ファゼーロはすぐその一本をデステゥパーゴの足もとに投げて返しました。デステゥパーゴは拾ひました。

そこでわたくしはまん中に出ました。

「いゝか。決闘の法式に従ふぞ。組打ちはならんぞ。一、二、三、よし。」

すると何のことはない、デステゥパーゴはそのみじかいナイフを剣のやうに持って一生けんめいファゼーロの胸をつきながら後退<あとずさ>りしましたしファゼーロは短刀をもつやうに柄をにぎってデステゥパーゴの手首をねらひましたので、三度ばかりぐるぐるまはってからデステゥパーゴはいきなりナイフを落して、左の手で右の手くびを押へてしまひました。

「おい、おい、やられたよ。誰か沃度<ヨード>ホルムをもってゐないか。過酸化水素はないか。やられた、やられた。」そしてべったり椅子<いす>へ坐ってしまひました。

わたくしはわらひました。

「よくいろいろの薬の名前をご存知ですな。だれか水を持ってきてください。」

ところがその水をミーロがもってきました。そして如露<じよろ>でシャーとかけましたのでデステゥパーゴは膝<ひざ>から胸からずぶぬれになって立ちあがりました。そして工合<ぐあひ>のわるいのをごまかすやうに、「えゝと、我輩はこれで失敬する。みんな充分やってくれ給<たま>へ。」と勢よく云ひながらすばやく野原のなかへ走りました。するとテーモも夏フロックもそのほか四五人急いであとを追ひかけて行ってしまひました。行ってしまふとにわかにみんなが元気よくなりました。

「やい、ファゼーロ、うまいことをやったなあ。この旦那<だんな>はいったい誰だい。」

「競馬場に居る人なんだよ。」

「いったい今夜はどういふんですか。」わたくしはやっとたづねました。

「いゝや、山猫の野郎来年の選挙の仕度なんですよ。たゞで酒を呑<の>ませるポラーノの広場とはうまく考へたなあ。」

「この春からかはるがはるかうやってみんなを集めて呑ませたんです。」

「その酒もなあ。」

「そいつは云ふな。さあ一杯やりませんか。」

「いゝえわたしどもは呑みません。」

「まあ、おやんなさい。」〔以下二行分空白〕

わたくしはもうたまらなくいやになりました。

「おい、ファゼーロ行かう。帰らう。」

わたくしはいきなり野原へ走りだしました。ファゼーロがすぐついて来ました。みんなはあとでまだがやがやがやがや云ってゐました。新らしく楽隊も鳴りました。誰かの演説する声もきこえました。わたくしたちは二人、モリーオの市の方のぼんやり明るいのを目あてにつめくさのあかりのなかを急ぎました。そのとき青く二十日の月が黒い横雲の上からしづかにのぼってきました。ふりかへってみるともうあのはんの木もあかりも小さくなって銀河はずうっと西へまはりさそり座の赤い星がすっかり南へ来てゐました。

わたくしどもは間もなくこの前三人で別れたあたりへ着きました。

「きみはテーモのところへ帰るかい。」わたくしはふと気がついて云ひました。

「帰るよ。姉さんが居るもの。」ファゼーロは大へんかなしさうなせまった声で云ひました。

「うん。だけどいぢめられるだらう。」わたくしは云ひました。

「ぼくが行かなかったら姉さんがもっといぢめられるよ。」ファゼーロはたうとう泣きだしました。

「わたしもいっしょに行かうか。」

「だめだよ。」ファゼーロはまだしばらく泣いてゐました。

「わたしのうちへ来るかい。」

「だめだよ。」

「そんならどうするの。」

ファゼーロはしばらくだまってゐましたが俄<には>かに勢よくなって云ひました。

「いゝよ。大丈夫だよ。テーモはぼくをそんなにいぢめやしないから。」

わたくしは、それが役人をしてゐるものなどの癖なのです、役所でのあしたの仕事などぼんやり考へながらファゼーロがさう云ふならよかろうと思ってしまひました。

「そんならいゝだらう。何かあったらしらせにおいでよ。」

「うん、ぼくね、ねえさんのことでたのみに行くかもしれない。」

「ああいゝとも。」

「ぢゃさよなら。」

ファゼーロはつめくさのなかに黒い影を長く引いて南の方へ行きました。わたくしはふりかへりふりかへり帰って来ました。うちへはひってみると、机の上には夕方の酒石酸のコップがそのまゝ置かれて電燈に光り枕時計<まくらどけい>の針は二時を指してゐました。

四、警察署

ところがその次の次の日のひるすぎでした。わたくしが役所の机で古い帳簿から写しものをしてゐますと給仕が来てわたくしの肩をつっついて

「所長さんがすぐ来いって。」と云ひました。わたくしはすぐペンを置いてみんなの椅子<いす>の間を通り、間の扉<と>をあけて所長室にはひりました。

すると所長は一枚の紙きれを持って扉をあける前から恐<こは>い顔つきをしてわたくしの方を見てゐましたが、わたくしが前に行って恭<うやうや>しく礼をすると、またじっとわたくしの様子を見てからだまってその紙切れを渡しました。見ると、

イ警第三二五六号 聴取の要有之<これあり>本日午后三時、本警察署人事係まで出頭致され度<た>し

イーハトーヴォ警察署

一九二七年六月廿九日
第十八等官 レネーオ キュースト殿

とあったのです。

あゝ、あのデステゥパーゴのことだなこれはおもしろいと、わたくしは心のなかでわらひました。すると所長はまだわたくしの顔付きをだまってみてゐましたが

「心当りがあるか。」と云ひました。

「はい、ございます。」わたくしはまっすぐに両手を下げて答へました。所長は安心したやうにやっと顔つきをゆるめてちらっと時計を見上げましたが

「よし、すぐ行くやうに。」と云ひました。わたくしはまたうやうやしく礼をして室<へや>を出ました。それから席へ戻って机の上をかたづけて、そっと役所を出かけました。巨<おほ>きな桜の街路樹の下をあるいて行って、警察の赤い煉瓦<れんぐわ>造りの前に立ちましたらさすがにわたくしもすこしどきどきしました。けれども何も悪いことはないのだからとじぶんでじぶんをはげまして勢よく玄関の正面の受付にたづねました。

「お呼びがありましたので参りましたが、レネーオ・キューストでございます。」

すると受付の巡査はだまって帳面を五六枚繰ってゐましたが

「あゝ失踪者<しつそうしや>の件だね、人事係のとこへ、その左の方の入口からはひって待ってゐたまへ。」と云ひました。失踪者の件といふのは何のことだらう、決闘の件とでも云ふならわかってゐるしその決闘なら刃の円くなった食卓ナイフでやったことなのだ、デステゥパーゴが血を出したかどうかもわからない、まあ何かの間違ひだらうと思ひながらわたくしは室<へや>へ入って行きました。そこはがらんとした窓の七つばかりある広い室でしたがその片隅<かたす>みにあの山猫博士の馬車別当がからだを無暗<むやみ>にこはばらしてじつに青ざめた変な顔をしながら腰掛けて待って居りました。

「やあ、ぢいさん、今日は、あなたも呼ばれたんですか。」わたくしはそばへ行ってわらひながら挨拶しました。するとぢいさんはこんな悪者と話し合ってはどんな眼にあふかわからないといふやうにうろうろどこか遁<に>げ口でもさがすやうに立ちあがって、またべったり座りました。

「あなたのご主人はいらっしゃらないのですか。」わたくしはまたたづねました。

「いらっしゃらないともさ。」ぢいさんはやっと云ひましたがそれからがたがたふるへました。

「いったいどうしたんですか。」わたくしはまだわらってききました。

「いま調べられてるんだよ。」

「誰が<たれ>。」わたくしはびっくりしてたづねました。

「ロザーロがさ。」

「ロザーロ、どうして?」もうわたくしはすっかり本気になってしまひました。

「ファゼーロが居なくなったからさ。」

「ファゼーロ?」思はずわたくしは高く叫びました。あゝあの晩ファゼーロが帰る途中で何かあったのだな、……

「話しすることはならん。」

いきなり奥の扉<と>ががたっとあきました。

「召喚人はお互話しすることはならん。おい、おまへはこっちへはひって居ろ。」ぢいさんは呼ばれてよろよろ立って次の室<へや>へ行きました。さう云はれて見るとなるほど次の室ではロザーロか誰か調べられてゐるらしくさっきからしづかに何か繰り返し繰り返し云ってゐるやうな気もしました。わたくしはまるで胸が迫ってしまひました。ファゼーロが居ない、ファゼーロが居ない、あの青い半分の月のあかりのなか、争って勝ったあとのあの何とも云はれないさびしい気持をいだきながら、ファゼーロがつめくさのあをじろいあかりの上に影を長く長く引いて、しょんぼりと帰って行った、そこには麻の夏外套<なつぐわいたう>のえりを立てたデステゥパーゴが三四人の手下を連れて待ち伏せしてゐる、ファゼーロがそれを見て立ちどまると向ふは笑ひながらしづかにそばへ迫って来る、いきなり一人がファゼーロを撲<なぐ>りつける、みんなたかって来て、むだに手をふりまはすファゼーロをふんだりけったりする、ファゼーロは動かなくなる、デステゥパーゴがそれをまためちゃくちゃにふみつける、えゝもう仕方ない持ってけ持ってけとデステゥパーゴが云ふ、みんなはそれを乾溜<かんりう>工場のかまの中に入れる。わたくしはひとりでかんがへてぞっとして眼をひらきました。(あゝあのときなぜわたくしはそのまゝうちへ帰ってねむったらう、なぜそんなわたくしが立っても居てもゐられないはずの時刻にわけもわからない眠りかたなどしてゐたろう。それにあのやさしいうつくしいロザーロがいま隣りの室<へや>でおどされたり鎌<かま>をかけられたりしてゐるのだ。)わたくしはたまらなくなってその室のなかをぐるぐる何べんもあるきました。窓の外の桜の木の向ふをいろいろの人が行ったり来たりしました。わたくしはその一人一人がデステゥパーゴかファゼーロのやうな気がしてたまりませんでした。鳥打帽子を深くかぶった少年が通るとファゼーロが遁<に>げてこゝをそっと通るのかと思ひ肥<ふと>った人を見るとデステゥパーゴが、わざとそんな形にばけて様子をさぐってゐるのだと思ひました。突然わたくしは頭がしいんとなってしまひました。隣りの室でかすかなすゝり泣きの声がしてそれからそれは何とかだっ、叫びながらおどすやうに足をどんとふみつけてゐるのです。わたくしはあぶなく扉をあけて飛び込まうとしました。するとまたしばらくしづかになってゐましたが間もなく扉のとってが力なくがちっとまわってロザーロが眼を大きくあいてよろめくやうにでてきました。

わたくしは何といっていいかわからなくてどぎまぎしてしまひました。するとロザーロがだまってしづかにおじぎをして私の前を通り抜けて外へ出て行きました。気がついて見るとロザーロのあとからさっきの警部か巡査からしい人が扉から顔を出して出て行くのを見てゐたのです。わたくしがそっちを見ますとその顔はひっこんで扉はしまってしまひました。中ではこんどは山猫博士の馬車別当が何か訊<き>かれてゐるようす、たびたび、何か高声でどなりつけるたびに馬車別当のおろおろした声がきこえてゐました。わたくしはその間にすっかり考へをまとめようと思ひましたが、何もかもごちゃごちゃになってどうしてもできませんでした。とにかくすっかり打ち明けて係りへ話すのがいちばんだと考へてもうじっとすわって落ち着いて居りました。すると間もなくさっきの扉ががぢゃっとあいて馬車別当がまっ青になってよろよろしながら出てきました。

「第十八等官、レオーノ・キュースト氏はあなたですか。」さっきの人がまた顔を出して云ひました。

「さうです。」

「では、こっちへ。」

わたくしははひって行きました。

そこにはも一人正面の卓<テーブル>に書類を載せて鬚<ひげ>の立派な一人の警部らしい人がたったいまあくびをしたところだといふふうに目をぱちぱちしながらこっちを見てゐました。

「そこへお掛けなさい。」

わたくしは警部の前に会釈して座りました。

「君がレオーノ・キュースト君か。」警部は云ひました。

「さうです。」

「職業、官吏、位階十八等官、年齢、本籍、現住、この通りかね。」警部はわたしの名やいろいろ書いた書類を示しました。

「さうです。」

「では訊<たづ>ねるが、君はテーモ氏の農夫ファゼーロをどこへかくしたか。」

「農夫のファゼーロ?」わたくしは首をひねりました。

「農夫だ。十六歳以上は子どもでも農夫だ。」警部は面倒くささうに云ひました。

「君はファゼーロをどこかへかくしてゐるだらう。」

「いゝえ、わたくしは一昨夜競馬場の西で別れたきりです。」

「偽<うそ>を云ふとそれも罪に問ふぞ。」

「いゝえ。そのときは二十日の月も出てゐましたし野原はつめくさのあかりでいっぱいでした。」

「そんなことが証拠になるか。そんなことまでおれたちは書いてゐられんのだ。」

「偽だとお考へになるならどこなりとお探しくださればわかります。」

「さがすさがさんはこっちの考だ。お前がかくしたらう。」

「知りません。」

「起訴するぞ。」

「どうでも。」

二人は顔を見合せました。

「では訊<たづ>ねるが君はどういふことでファゼーロと知り合いになったか。」

「ファゼーロがわたくしの遁<に>げた山羊<やぎ>をつかまへてくれましたので。」

「うん、それはいつどこでだ。」

「五月のしまひの日曜、二十七日でしたかな。」

「うん。二十七日。どこでだ。」

「あれは何といふ道路ですか、教会の横から、村へ出る道路を一キロばかり行った辺です。」

「うん。おまへは二十七日の晩ファゼーロと連れだって村の園遊会へちん入したなあ。」

「ちん入といふわけではありませんでした。明るくていろいろの音がしますので行って見たのです。」

「それからどうした。」

「それからわたくしどもが酒を呑まんと云ひますとテーモが怒ったのです。」

「テーモはお前とはいつから知り合ひか。」

「ファゼーロと知り合ひになったときです。そのときテーモはファゼーロが仕事に行く時間をわたくしが邪魔したといって革むちをわたくしの顔の前で鳴らしました。」

「それだけか。」

「はい。」

「園遊会でそれからどういふことになったか。」

わたくしはそこであのポラーノの広場での出来事を全部話しました。一人はそれをどんどん書きとりました。警部が云ひました。

「きみはファゼーロの居ないことをさっきまで知らなかったか。」

「はい。」

「何か証拠を挙げられるか。」

「はい、えゝ、昨日と今日役所での仕事をごらん下さればわかります。わたくしはあれですっかりかたが着いたと思ってせいせいして働いてゐたのであります。」

「それも証拠にはならん。おい、君、白っぱくれるのもいゝ加減にしたまへ。テーモ氏からさう索願が出てゐるのだ。いま君がありかを云へば内分で済むのだ。でなけぁ、きみの為<ため>にならんぜ。」

「どうも全く知らないのです。まあ、あなたがたもご商売でせうが、わたくしの声や顔付きをよくごらんください。これでおわかりにならんのですか。」わたくしは少ししゃくにさはって一息に云ひました。

すると二人はまた顔を見合せました。えゝもうなるやうになれとわたくしはまた云ひました。

「なぜわたくしより前にデステゥパーゴを呼び出してくださらんのです。誰<たれ>が考へてもファゼーロの居ないのはデステゥパーゴのしわざです。まさか殺しはしますまいが。」

「デステゥパーゴ氏は居らん。」

わたくしはどきっとしました。あゝファゼーロは本気かあるいは間ちがって殺されたのかもしれない。警部が云ひました。

「お前の申し立てはいろいろの点でテーモ氏の申し立てとちがってゐる。しかしわれわれはそれは当然だらうと考える。いま調書を読むから君の云ったところとちがった所がないかよくききたまへ。」一人は読みはじめました。

「ちがひはありません。」私はファゼーロのことを考へながら上の空で答へました。

「こゝへ署名したまへ。」

わたくしは書類のはじへ書きました。もうどうしても心配で心配でたまらなくなったのです。

「では帰ってよろしい。明日また呼ぶから。」警部は云ひました。わたくしはたまらなくなりました。

「ファゼーロはどうしたんです。なぜデステゥパーゴをつかまへんのです。」

「それを君が云ふことは要らん。」

「だってファゼーロはどうしたんです。」

「そんなら心配なら君もさがしたまへ。さあ帰り給へ。」二人はもう疲れて早くやめたいといふ風でした。わたくしは、もうあかりのついてゐた警察署を夢中で飛びだしました。すると出口の桜の幹に、その青い夕方のもやのなかに、ロザーロがしょんぼりよりかかってかなしさうに遠いそらを見てゐました。わたくしは思はずかけよりました。

「あなたはロザーロさんですね。わたくしはどこへさがしに行ったらいゝでせう。」

ロザーロが下を見ながら云ひました。

「きっと遠くでございますわ。もし生きてゐれば。」

「わたくしがいけなかったんです。けれどもきっとさがしますから。」

「えゝ、」

「デステゥパーゴはゐないんですか。」

「ゐないんです。」

「馬車別当は?」

「見ませんでした。」

「あなたのご主人は知ってゐないんですか。」

「えゝ。」

「捜索願をわざと出したのでせう。」

「いゝえ。警察からも人が来てしらべたのです。」

「あなたはこれから主人のとこへお帰りになるんですか。」

「えゝ、」

「そこまでご一所いたしませう。」

わたくしどもはあるきだしました。わたくしはいろいろ話しかけて見ましたが、ロザーロはどうしてもかなしさうで一言<ひとこと>か二言しか返事しませんのでわたくしはどうしてももっと立ち入ってファゼーロと二人のことに立ち入ることができませんでした。そしてこの前山羊<やぎ>をつかまへた所まで来ますとロザーロは「もうぢきですから」と云ってじぶんからおじぎをして行ってしまひました。わたくしはさびしさや心配で胸がいっぱいでした。そしてその晩から毎晩毎晩野原にファゼーロをさがしに出ました。日曜日にはひるも出ました。ことにこの前ファゼーロと別れた辺からテーモの家までの間に何か落ちてないかと思ってさがしたりつめくさの花にデステゥパーゴやファゼーロのあしあとがついてゐないかと思って見てまはったりデステゥパーゴの家から何か物音がきこえないかと思って幾晩も幾晩もそのまはりをあるいたりしました。

前の二本の樺の木のあたりからポラーノの広場へも何べんも行きました。そのうちにつめくさの花はだんだん枯れて茶いろになり、ポラーノの広場のはんのきにはちぎれて色のさめたモールが幾本かかかってゐるだけ、ミーロへも会ひませんでした。警察からはあと呼び出しがありませんでしたのでこっちから出て行ってどうなったかきいたりしましたが警察ではファゼーロもデステゥパーゴも、まだ手がゝりはないが心配もなかろうといふやうなことばかり云ふのでした。そしてわたくしも、どういふわけか、なれたのですかつかれたのですか、ファゼーロはファゼーロでちゃんとどこかにゐるといふやうな気がしてきたのです。

五、センダード市の毒蛾<どくが>

そしてだんだん暑くなってきました。役所では窓に黄いろな日覆<ひおほひ>もできましたし隣りの所長の室<へや>には電気会社から寄贈になった直径七デシもある大きな扇風機も据ゑつけられました。あまり暑い日の午后などは所長が自分で立って間の扉<と>をあけて

「さあ諸君少し風にあたりたまへ。」なんて云ったものです。すると大扇風機から風がどうどうやって来ました。尤<もっと>も私の席はその風の通り路からすこし外れてゐましたから格別涼しかったわけでもありませんでしたがそれでも向ふの書類やテーブルかけがぱたぱた云ってゐるのを見るのは実際愉快なことでした。それでもそんな仕事のあひまにふっとファゼーロのことを思ひだすと胸がどかっと熱くなってもうどうしたらいゝかわからなくなるのでした。とにかくその七月いっぱいに私のした仕事は

一、北極熊剥製方をテラキ標本製作所に照会の件
一、ヤークシャ山頂火山弾運搬費用見積の件
一、植物標本褪色調査の件
一、新番号札二千三百枚調製の件

などでした。そして八月に入りました。その八月二日の午<ひる>すぎ、わたくしが支那<しな>漢時代の石に刻んだ画<ゑ>の説明をうつらうつら写してゐましたら、給仕がうしろからいきなりわたくしの首すぢを突っついて、

「所長さん来いって。」といひました。わたくしはすこしむっとしてふり返りましたら給仕はまた威張って云ひました。

「所長さんがすぐ来いって。」

わたくしは返事もしないでだまってみんなの椅子<いす>のうしろを通り例の扉<と>をあけて恭々しくはひって行きました。

所長は肥<ふと>った白い手首に顎<あご>をもたせて扇風機にあたりながら新聞を見てゐましたがわたくしが行くとだるさうにちょっと眼をあげてそれから机の上の紙挾<かみばさ>みから一枚の命令書をわたくしによこしました。それには

「海産鳥類の卵採集の為に八月三日より二十八日間イーハトーヴォ海岸地方に出張を命ず。」と書いてありました。わたくしはまるでほくほくしてしまひました。あのイーハトーヴォの岩礁の多い奇麗な海岸へ行って今ごろありもしない卵をさがせといふのはこれは慰労休暇のつもりなのだ。それほどわたくしが所長にもみんなにも働いてゐると思はれてゐたのか、ありがたいありがたいと心の中で雀躍<こをどり>しました。すると所長は私の顔を少しも見ないでやっぱり新聞を見ながら、

「会計へまわって見積旅費を受けとるやうに。」と一言だけ云ひました。わたくしは叮嚀に礼をして室<へや>を出ました。それからその辞令をみんなへ一人づつ見せて挨拶<あいさつ>してあるきおしまひに会計に行きましたら会計の老人はちょっと渋い顔付きはしてゐましたがだまってわたくしの印を受け取って大きな紙幣を八枚も渡してくれました。ほかに役所の大きな写真器械や双眼鏡も借りました。うちへ帰るとわたくしは持ってゐたレコードをみんな町の古時計屋へ売ってしまひました。そして大きなへりのついたパナマの帽子と卵いろのリンネルの服を買ひました。

次の朝わたくしは番小屋にすっかりかぎをおろし一番の汽車でイーハトーヴォ海岸の一番北のサーモの町に立ちました。その六十里の海岸を町から町へ、岬<みさき>から岬へ、岩礁から岩礁へ、海藻<かいさう>を押葉にしたり、岩石の標本をとったり、古い洞穴<ほらあな>や模型的な地形を写真やスケッチにとったりそしてそれを次々に荷造りして役所へ送りながら二十幾日の間にだんだん南へ移って行きました。海岸の人たちはわたくしのやうな下給の官吏でも大へん珍らしがってどこへ行っても歓迎してくれました。沖の岩礁へ渡らうとするとみんなは船に赤や黄の旗を立てて十六人もかかって櫓<ろ>をそろへて漕<こ>いでくれました。夜にはわたくしの泊った宿の前でかゞりをたいていろいろな踊りを見せたりしてくれました。たびたびわたくしはもうこれで死んでいゝと思ひました。けれどもファゼーロ!あの暑い野原のまんなかでいまも毎日はたらいてゐるうつくしいロザーロ、さう考へて見るといまわたくしの眼のまへで一日一ぱいはたらいてつかれたからだを踊ったりうたったりしてゐる娘たちや若ものたち、わたくしは何べんも強く頭をふって、さあ、われわれはやらなければならないぞ、しっかりやるんだぞ、みんなの〔数文字分空白〕とひとりでこゝろに誓ひました。

そして八月三十日の午<ひる>ごろわたくしは小さな汽船でとなりの県のシオーモの港に着きそこから汽車でセンダードの市に行きました。三十一日わたくしはそこの理科大学の標本をも見せて貰<もら>ふやうに途中から手紙をだしてあったのです。わたくしが写真器と背嚢<はいなう>をもってセンダードの停車場に下<お>りたのはちゃうど灯がやっとついた所でした。わたくしは大学のすぐ近くのホテルからの客を迎へる自働車へほかの五六人といっしょに乗りました。採って来たたくさんの標本をもってその巨<おほ>きな建物の間を自働車で走るときわたくしはまるで凱旋<がいせん>の将軍のやうな気がしました。ところがホテルへ着いて見ると、この暑いのに窓がすっかり閉めてあるのです。室<へや>へ通されてみると仲々むし暑いのでわたくしは給仕に

「おい、どうしたんだ。窓をあけたらいゝぢゃないか。」と云ひました。すると給仕はてかてかの髪をちょっと撫<な>でて

「はい、誠にお気の毒でございますが、当地方には、毒蛾<どくが>がひどく発生して居りまして、夕刻からは窓をあけられませんのでございます。只今<ただいま>、扇風機を運んで参ります。」と云ったのでした。

なるほど、さう云って出て行く給仕を見ますと、首にまるで石の環<わ>をはめたやうな厚い繃帯<はうたい>をして、顔もだいぶはれてゐましたからきっと、その毒蛾に噛<か>まれたんだと、私は思ひました。ところが、間もなく隣りの室<へや>で、給仕が客と何か云ひ争ってゐるやうでした。それが仲々長いし烈<はげ>しいのです。私は暑いやら疲れたやら、すっかりむしゃくしゃしてしまひましたので、今のうち一寸<ちよつと>床屋へでも行って来ようと思って室を出ました。そして隣りの室の前を通りかゝりましたら、扉<と>が開け放してあって、さっきの給仕がひどく悄気<しよげ>て頭を垂れて立ってゐました。向ふには、髪もひげもまるで灰いろの、肥<ふと>ったふくろふのやうなおぢいさんが、安楽椅子<あんらくいす>にぐったり腰かけて、扇風機にぶうぶう吹かれながら、

「給仕をやってゐながら、一通りのホテルの作法も知らんのか。」と頬<ほほ>をふくらして給仕を叱<しか>りつけてゐました。私は、ははあ扇風機のことだなと思ひながら、苦笑ひをしてそこを通り過ぎようとしますと、給仕がちょっとこっちを向いて、いかにも申し訳ないといふやうに眼をつぶって見せました。私はそれですっかり気分がよくなったのです。そして、どしどし階段を踏んで、通りに下<お>りました。

なるほど、毒蛾のことがわかって町をあるくと、さっき停車場からホテルへ来る途中、いろいろ変に見えたけしきも、すっかりもっともと思はれたのです。人道にはたくさんたき火のあとがありましたし、みんなは繃帯<はうたい>をしたり白いきれで顔を擦<こす>ったりしながら歩いてゐました。また並木のやなぎにいちいち石油ラムプがぶらさがってゐたのです。私は一軒の床屋に入りました。それは向側の鏡が、九枚も上手に継いであって、店が丁度二倍の広さに見えるやうになって居り、糸杉やこめ栂<つが>の植木鉢<うゑきばち>がぞろっとならび、親方らしい隅<すみ>のところで指図をしてゐる人のほかに職人がみなで六人もゐたのです。すぐ上の壁に大きながくがかかってそこにそのうちの四人の名前が理髪アーティストとして立派にならび、二人は助手として書かれてゐました。

「お髪<くし>はこの通りの型でよろしうございますか。」私が鏡の前の白いきれをかけた上等の椅子<いす>に座ったとき、そのうちの一人が私にたづねました。

「えゝ。」私はもう明日は帰るイーハトーヴォの野原のことを考へながらぼんやり返事をしました。

するとその人は向ふで手のあいてゐるもう二人の人たちを指で招きながら云ひました。

「どうだらう。お客さまはこの通りの型でいゝと仰<お>っしゃるが、君たちの意見はどうだい。」

二人は私のうしろに来て、しばらくじっと鏡にうつる私の顔を見てゐましたが、そのうち一人のアーティストが、白服の腕を胸に組んで答へました。

「さあ、どうかね、お客さまのお顎<あご>が白くて、それに円くて、大へん温和<おとな>しくいらっしゃるんだから、やはりオールバックよりはネオグリークの方がいゝぢゃないかなあ。」

「うん。僕もさう思ふね。」も一人も同意しました。私の係りのアーティストがおれもさうおもってゐたといふやうにうなづいて、私に云ひました。

「いかゞでございます、たゞいまのお髪<くし>の型よりは、ネオグリークの方がお顔と調和いたしますやうでございますが。」

「さうですね、ぢゃさう願ひませうか。」私も叮嚀に云ひました。なぜならこの人たちはみんな立派な芸術家だとおもったからです。

さて、私の頭はずんずん奇麗になり、疲れも大へん直りました。これなら、今夜よく寝<やす>んで、あしたは大学のあの地下になった標本室で向ふの助手といちにち暮しても大丈夫だと思って、気もちよく青い植木鉢や、アーティストの白い指の動くのや、チャキチャキ鳴る鋏<はさみ>の影をながめて居りました。

すると俄<には>かに私の隣りの人が、

「あ、いけない、いけない、押へてくれたまへ。畜生畜生。」とひどく高い声で叫んだのです。

びっくりして私はそっちを見ました。アーティストたちもみな馳<は>せ集ったのです。それこそはひげを片っ方だけ剃<そ>ったままで大へん瘠<や>せては居りましたが、しかしたしかにそれはデステゥパーゴです。わたくしは占めたとおもひました。デステゥパーゴはわたくしなぞ気がつかずにまだ怖<おそ>ろしさうに顔をゆがめてゐました。

「どこへさはりましたのですか。」

さっきの親方のアーティストが麻のモーニングを着て、大きなフラスコを手にしてみんなを押し分けて立ってゐました。そのうちに二三人のアーティストたちは、押虫網でその小さな黄色な毒蛾<どくが>をつかまへてしまひました。

「こゝだよ、こゝだよ。早く。」と云ひながら紳士は左の眼の下を指しました。親方のアーティストは、大急ぎで、フラスコの中の水を綿にしめしてその眼の下をこすりました。

「何だいこの薬は。」デステゥパーゴが叫びました。

「アンモニア二%液」と親方が落ち着いて答へました。

「アンモニアは利かないって、今朝の新聞にあったぢゃないか。」デステゥパーゴは椅子<いす>から立ちあがりました。デステゥパーゴは桃いろのシャツを着てゐました。

「どの新聞でご覧です。」親方は一層落ちついて答へました。

「センダート日日新聞だ。」

「それは間違ひです。アムモニアの効くことは県の衛生課長も声明してゐます。」

「あてにならん。」

「さうですか。とにかく、だいぶ腫<は>れて参ったやうです。」親方のアーティストは、少ししゃくにさはったと見えて、プイッとうしろを向いて、フラスコを持ったまゝ向ふへ行ってしまひました。デステゥパーゴはぷんぷん怒りだました。

「失敬ぢゃないか、あしたは僕は陸軍の獣医官たちと大事な交際があるんだぞ。こんなことになっちゃ、まるで向ふの感情を害するばかりだ。きさまの店を訴へるぞ。」と云ひながら、ずんずん赤くはれて行く頬<ほほ>を鏡で見てゐました。親方もむかっ腹を立てて云ひました。

「なあに毒蛾なんか、市中到<いた>る処に居るんだ。町をあるいてさはられたら市長でも訴へたらよかろうさ。」

デステゥパーゴは、渋々、又椅子に座って、

「おい、早くあとをやってしまって呉れ早く。」と云ひました。そして、しきりに変な形になって行く顔を気にしながら、残りの半分のひげを剃らせてゐました。

わたくしも急ぎました。けれどもたしかにわたくしの方が早く済むのです。それでも向ふがさきに済んだらこっちもすぐ立たうと思ってそっと財布をさぐって大きな銀貨を一枚もって握ってゐました。

ところがどういふわけか私より私のアーティストがもっと急いで居りました。そしてしきりに時計を見ました。

まるで私の顔などは、三十秒ぐらゐで剃ってしまったのです。わたくしは怖<こわ>がりながらじつにうまいとおもってゐました。

「さあお洗ひいたしませう。」

私はデステゥパーゴに知れないやうに、手で顔をかくしながら大理石の洗面器の前に立ちました。

アーティストは、つめたい水でシャアシャアと私の頭を洗ひ時々は指で顔も拭<ぬぐ>ひました。

それから、私は、自分で勝手に顔を洗ひました。そして、も一度椅子<いす>にこしかけたのです。

その時親方が、

「さあもう一分だぞ。電気のあるうちに大事なところは済ましちまへ。それからアセチレンの仕度はいゝか。」

「すっかり出来てゐます。」小さな白い服の子供が云ひました。

「持って来い。持って来い。あかりが消えてからぢゃ遅いや。」親方が云ひました。

そこでその子供の助手が、アセチレン燈を四つ運び出して、鏡の前にならべ、水を入れて火をつけました。烈<はげ>しく鳴って、アセチレンは燃えはじめたのです。その時です。あちこちの工場の笛は一斉に鳴り、子供らは叫び、教会やお寺の鐘まで鳴り出して、それから電燈がすっと消えたのです。電燈のかはりのアセチレンで、あたりがすっかり青く変りました。

それから私は、鏡に映ってゐる海の中のやうな、青い室の黒く透明なガラス戸の向ふで、赤い昔の印度<インド>を偲<しの>ばせるやうな火が燃されてゐるのを見ました。一人のアーティストが、そこでしきりに薪<まき>を入れてゐたのです。

「今夜は、毒蛾も全滅だな。」誰か向ふで云ひました。

「さあどうかねえ。」私のとこのアーティストは、私の頭に、金口の瓶から香水をかけながら答へました。それからアーティストは、私の顔をも一度よく拭って、それから戸口の方をふり向いて、「ちょっと見て呉れ。」と云ひました。アーティストたちは、あるいは戸口に立ち、あるいはたき火のそばまで行って、外の景色をながめてゐましたが、この時大急ぎでみんな私のうしろに集まりました。そして鏡の中の私の顔を、それはそれは真面目<まじめ>な風で検<しら>べてから

「いゝやうだね。」と言ひました。私はそこで椅子<いす>から立ちました。しっかり握ってゐて温くなった銀貨を一枚払ひました。そしてその大きなガラスの戸口を出て通りに立ちました。デステゥパーゴのあとをつけようとおもったのです。

そこへ立って、私は、全く変な気がして、胸の躍るのをやめることができませんでした。それはあのセンダードの市の大きな西洋造りの並んだ通りに、電気が一つもなくて、並木のやなぎには、黄いろの大きなラムプがつるされ、みちにはまっ赤な火がならび、そのけむりはやさしい深い夜の空にのぼって、カシオピイアもぐらぐらゆすれ、琴座も朧<おぼろ>にまたゝいたのです。どうしてもこれは遙<はる>かの南国の夏の夜の景色のやうに思はれたのです。私は、店のなにかのぞきながら待ってゐました。いろいろな羽虫が本当にその火の中に飛んで行くのも私は見ました。向ふでもこっちでも、繃帯<ほうたい>をしたり、きれを顔にあてたりしながら、まちの人たちが火をたいてゐました。

そのうちに、私は向ふの方から、高い鋭い、そして少し変な力のある声が、私の方にやって来るのを聞きました。だんだん近くなりますと、それは頑丈<ぐわんぢやう>さうな変に小さな腰の曲ったおぢいさんで、一枚の板きれの上に四本の鯨油蝋燭<げいゆらふそく>をともしたのを両手に捧<ささ>げてしきりに斯<か>う叫んで来るのでした。

「家の中の燈火<あかり>を消せい。電燈を消してもほかのあかりを点<つ>けちゃなんにもならん。家の中のあかりを消せい。」

あかりをつけてゐる家があるとそのおぢいさんはいちいちその戸口に立って叫ぶのでした。

「家の中のあかりを消せい。電燈を消してもほかのあかりをつけちゃなんにもならん。家の中のあかりを消せい。」その声はガランとした通りに何べんも反響してそれから闇<やみ>に消えました。

この人はよほどみんなに敬はれてゐるやうでした。どの人もどの人もみんな叮嚀におじぎをしました。おぢいさんはいよいよ声をふりしぼって叫んで行くのでした。

「家のなかのあかりを消せい。電燈を消してもほかのあかりをつけちゃなんにもならん。家の中のあかりを消せい。いや、今晩は。」叫びながら右左の人に挨拶<あいさつ>を返して行くのでした。

「あの人は何ですか。」私は火にあたってゐるアーティストにたづねました。

「撃剣の先生です。」

ところがその撃剣の先生はつかつかと歩いて来ました。

「うちのなかのあかりを消せい、電燈を消してもべつのあかりをつけちゃなんにもならん。はやく消せい。おや、今晩は。なるほど、こちらの商売では仕方ないかね。」

「えゝ、先生、今晩は、ご苦労さまでございます。」親方がでてきて挨拶しました。

「いや今晩は。どうもひどい暑気ですね。」

「へい、全く、虫でしめっ切りですからやりきれませんや。」

「さうねえ、いや、さよなら。」撃剣の先生はまただんだん向ふへ叫んで行きました。その声がだんだん遠くなってどこかの町の角でもまがったらしいときその青い海の中のやうな床屋の店のなかからたうとうデステゥパーゴが出て来てしばらく往来を見まわしてからすたすた南の方へあるきだしました。わたくしは後向きになって火の中へ落ちる蛾を見てゐるふりをしてゐましたがすぐあとをつけました。デストゥパーゴは毒蛾にさはられたためにたいへん落ち着かないようすでした。それにどこかよほどしょげてゐました。わたくしはあとをつけながらなんだかかあいさうなやうな気もちになりました。もちろんひとりもデステゥパーゴに挨拶するものもありませんでしたし、またデステゥパーゴはなるべくみんなに眼のつかないやうに車道との堺<さかひ>の並木のしたの陰影になったところをあるいてゐるのでした。

どうもデステゥパーゴが大びらに陸軍の獣医たちなどと交際するなんて偽<うそ>らしいとわたくしは思ひました。たうとうデステゥパーゴは立ちどまってしばらくあちこち見まはしてから大通りから小さな小路にはひりました。わたくしは知らないふりしてぐんぐん歩いて行きました。その小路をはひるとまもなく、一つの前庭のついた小さな門をデステゥパーゴははひって行きました。わたくしはすっかり事情を探ってからデステゥパーゴに会はうか、警察へ行って、イーハトーヴォでさがしてゐるデステゥパーゴだと云って押へてしまってもらはうかとそのときまで考へてゐましたがいまデステゥパーゴの家のなかへはひるのを見るともう前後を忘れて走り寄りました。

「デステゥパーゴさん。しばらくでしたな。」

デステゥパーゴはぎくっとして棒立ちになりましたがわたくしを見ると遁<に>げもしないでしょんぼりそこへ立ってしまひました。

「ファゼーロをたづねてまゐったのですがどうかお渡しをねがひます。」

デステゥパーゴははげしく両手をふりました。

「それは誤解です誤解です。あの子どもはわたくしは知りません。」

「いったいそんならあなたはなぜこんなところへかくれたのですか。」

デステゥパーゴはまっ青になりました。

「イーハトーヴォの警察ではファゼーロといっしょにあなたもさがしてゐるのです。もうすっかり手配がついてゐます。今夜はどうなってもあなたは捕<つか>まります。ファゼーロはどこにゐるのです。」わたくしは思はずうそをついてしまひました。デステゥパーゴは毒蛾のためにふくれてをかしな格好になった顔でなゝめにわたくしを見ながらぶるぶるふるえてまるで聞きとれないくらゐ早口に云ひました。

「そんな筈<はず>はない、そんな筈はない。名誉にかけて、紳士の名誉にかけて。」

なぜそんならあなたはこんなところへかくれたのです。」

デステゥパーゴはやうやくふるへるのをやめてしばらく考へてゐましたがやうやく少しゆっくり云ひました。

「わたくしは警察からは召喚されただけでそれは旅行届を出して代人を出してある筈<はず>です。それに就<つい>ては署長に充分諒解<りやうかい>を得てあります。警察ではわたくしに何の嫌疑<けんぎ>もかけてゐない筈です。」

「それならなぜ旅行届を出したりして遁<に>げたのです。」デステゥパーゴはやっと落ち着きました。

「いや、おはひりください。詳しくお話しませう。」

デステゥパーゴはさきに立って小さな玄関の戸を押しました。するとさっきから内側で立って見てゐたと見えて一人のおばあさんが出迎へました。

「お茶をあげてくれ。」デステゥパーゴはすぐ右側の室<へや>へはひって行きました。わたくしはもう多分大丈夫だけれども遁げるといけないと思って戸口に立ってゐました。デステゥパーゴは何か瓶をかちかち鳴らしてから白いきれで顔を押へながら出て来ました。

「さあどうぞこちらへ。」

わたくしは応接室に通されました。デステゥパーゴはやうやく落ち着きました。

「わたくしがこゝへ人を避けて来てゐるのは全くちがった事情です。じつはあなたもご承知でせうがあの林の中でわたくしが社長になって木材乾溜の会社をたてたのです。ところがそれがこの頃の薬品の価格の変動でだんだん欠損になってどうにもしかたなくなったのです。わたくしはいろいろやって見ましたがどうしてもいけなかったのです。もちろんあの事業にはわたくしの全財産も賭<と>してあります。すると重役会である重役がそれをあのまゝ醸造所にしようといふことを発議しました。そこでわたくしどもも賛成して試験的にごくわづか造って見たのですが、それを税務署へ届け出なかったのです。ところがそれをだしにしてわたくしのある部下のものがわたくしを脅迫しました。あの晩はじつに六<むつ>ヶしい場合でした。あすこに来てゐたのはみんな株主でした。わざとあすこをえらんだのです。ところが株主の反感は非常だったのです。わたくしももうやけくそになってあゝいふ風に酔ってゐたのです。そこへあなたが出て来たのですからなあ。」

わたくしははじめてあの頃のことがはっきりして来ました。それといっしょに眼の前にゐるデステゥパーゴがかあいさうにもなりました。

「いや、わかりました。けれどもあゝファゼーロはどうしたらうなあ。」

デステゥパーゴが云ひました。

「わたくしはあの子どもを憎んで居りません。わたくしに前のやうないゝ条件があれば世話して学校にさへ入れたいのです。けれどもあの子どもはきっとどこかで何かしてゐますぞ。警察でもさう見てゐます。」

わたくしはいきなり立ってデステゥパーゴに別れを告げました。

「ではわたくしは帰ります。あなたはこゝをどうかお立ち退<の>きください。わたくしは帰ってこの事情を云はないわけにも参りませんから。」

デステゥパーゴはしょんぼりとして云ひました。

「いまわたくしは全く収入のみちもないのです。どうか諒解<りやうかい>してください。」

わたくしは礼をしました。

「ロザーロは変りありませんか。」デステゥパーゴは大へん早口に云ひました。

「えゝ、働いてゐるようです。」わたくしもなぜかふだんとちがった声で云ひました。

六、風と草穂

九月一日の朝わたくしは旅程表やいろいろな報告を持ってきまった時間に役所に出ました。わたくしはみんなにも挨拶して廻り、所長が出て来るや否やその扉<と>をノックしてはひって行きました。

「あ帰ったかね。どうだった。」所長は左手ではづれたカラーのぼたんをはめながら云ひました。

「はい、お陰で昨晩戻って参りました。これは報告でございます。集めた標本類は整理いたしましてから目録をつくって後ほど持って参ります。」

「うん、さう急がないでもよろしい。」所長はカラーをはめてしまってしゃんとなりました。わたくしは礼をして室<へや>を出ました。そしてその日は一日来てゐた荷物をほどいたり机の上にたまってゐた書類を整理したりしてゐるうちにいつか夕方になってしまひました。わたくしもみんなのあとから役所を出て、いままでの通り公衆食堂で食事をして競馬場へ帰って来ました。するとやっぱりよほど疲れてゐたと見えてちょっと椅子<いす>へかけたと思ったらいつかもうとろとろ睡<ねむ>ってしまってゐました。その甘ったるい夕方の夢のなかでわたくしはまだあの茶いろななめらかな昆布の干されたイーハトーヴォの岩礁の間を小舟に乗って漕<こ>ぎまわってゐました。俄<には>かに舟がぐらぐらゆれ、何でも恐ろしくむかし風の竜が出てきてわたくしははねとばされて岩に投げつけられたと思って眼をさましました。誰かわたくしをゆすぶってゐたのです。

わたくしは何べんも瞳<ひとみ>を定めてその顔を見ました。それはファゼーロでした。

「あっ、どうしたんだきみはずうっと前から居たのかい。」わたくしはびっくりして云ひました。

「ぼくはね、八月の十日に帰ってきたよ。おまへはいままで居なかったぢゃないか。」

「居なかったさ。海岸へ出張してゐたんだ。」

「今夜ね、ぼくらの工場へ来ておくれ。」

「きみらの工場? 何がどうしたんだ。全体きみはどこへ行ってたんだ。」

「ぼくはねえ、センダードのまちの革を染める工場へはひってゐたよ。」

「センダード。どうしてあんなとこまで行ったんだ。そして今夜またぼくにセンダードへ行けといふのかい。」

「さうぢゃないよ。」

「ではどうなんだ。第一どうしてあんなとこまで行ったんだ。」

「ぼくどうしてもうちへはひれなかったんだ。そしてうちを通り越してもっと歩いて行った。すると夜が明けた。ぼくが困って座ってゐると革を買う人が通ってその車にぼくをのせてたべものをくれた。それからぼくはだんだん仕事も手伝ってたうとうセンダードへ行ったんだ。」

「さうか。ほんたうにそれはよかったなあ。ぼくはまたきみがあの醋酸<さくさん>工場の釜の中へでも入れられて蒸し焼きにされたかと思ったんだ。」

「ぼくはね、あっちで技師の助手をしたんだ。するとその人が何でも教へてくれた。薬もみんな教へてくれた。ぼくはもう革のことならなめすことでも色を着けることでもなんでもできるよ。」

「そしてどうして帰ってきた。」

「警察から探されたんだよ。けれどもそんなに叱られなかった。」

「きみの主人は何と云った。」

「もうどこへ行ってもいゝから勝手にしろって。」

「そしてどうするの。」

「年よりたちがねえ、ムラードの森の工場に居てぼくに革の仕事をしろといふんだ。」

「できるかい。」

「できるさ。それにミーロはハムを拵<こさ>へれるからな。みんなでやるんだよ。」

「姉さんは?」

「姉さんも工場へ来るよ。」

「さうかねえ。」

「さあ行かう今夜も確か来てゐるから。」

わたくしは俄<には>かに疲れを忘れて立ちあがりました。

「ぢゃ行かう。だけど遠いかい。」

「この前のポラーノの広場のちょっと向ふさ。」

「少し遠いねえ。けれど行かう。」わたくしはすばやく旅行のときのまゝのなりをしていっしょにうちを出ました。ファゼーロはまた走りだしました。

雲が黄ばんでけはしくひかりながら南から北へぐんぐん飛んで居りました。けれども野原はひっそりとして風もなくたゞいろいろの草が高い穂を出したり変にもつれたりしてゐるばかり、夏のつめくさの花はみんな鳶<とび>いろに枯れてしまってその三つ葉さえ大へん小さく縮まってしまったやうに思はれました。

そのときわたくしは二人の大きな鎌<かま>をもった百姓がわたくしどもの前を横ぎるやうに通って行くのを見ました。その二人もこっちをちらっと見たやうでしたがそれから何かはなし合ってとまってわたくしどもの行くのを待ってゐるようすです。わたくしどもも急いで行きました。

「やあ、お前さん帰って来さしゃったね。まづご無事で結構でした。」

一人がわたくしに挨拶しました。この前ポラーノの広場でデステゥパーゴに介添をしろと云はれて遁<に>げた男のようでした。

「えゝありがたう。ファゼーロももう帰って来てすっかりもとの通りですね。」

「山猫博士が居ませんや。」

「山猫博士? デステゥパーゴ? デステゥパーゴにわたしはセンダードで会ひましたよ。大へんおちぶれて気の毒なくらゐだった。」

「いゝえ、デステゥパーゴは落ちぶれるもんですか。大将センダードのまちにたくさん土地を持ってゐますよ。」

「はてな、財産はみんなあの乾溜<かんりう>会社にかけてしまったと云ってゐたが。」

「どうして、どうして、あの山猫がそんなことをするもんですか。会社の株がたゞみたいになったから大将遁<に>げてしまったんです。」

「いや、何か重役の人が醸造の方へかゝらうとして手続を欠いて責任を負ったとか云ってゐたが。」

「どうしてどうして。酒をつくることなんかみんな大将の考なんですよ。」

「だって試験的にわづかつくっただけださうぢゃないですか。」

「あなたはよっぽどうまくだまされておいでですよ。あの工場からアセトンだと云って樽詰<たるづ>めにして出したのはみんな立派な混成酒でさあ。悪いのには木精<もくせい>もまぜたんです。その密造なら二年もやってゐたんです。」

「ぢゃポラーノの広場で使ったのもそれか。」

「さうですとも。いや何と云っても大将はずるいもんですよ。みんなにも弱味があるから、まあこのまゝ泣寝入でさあ。たゞまああの工場をこんどはみんなでいろいろに使ってできるだけお互いのいるものは拵<こさ>へようといふんです。」

「さうかねえ。ファゼーロが何かするのかい。」

「えゝ、まあ別に新らしい資本がかゝるわけでもなし革をなめしたりハムを拵えたり、栗を蒸して乾かしたり、そんなことをいろいろやらうといふんです。」

「さあもう行かう。」ファゼーロがわたくしをつっつきました。

「それぢゃまた」

「お休みなさい。」

どうもデステゥパーゴの云ったのが本当かみんなの云ふのが本当かこれはどうもよくわからないとわたくしはあるきだしながらおもひました。

わたくしどもはどんどん走りつゞけました。

「そらあすこに一つ、あかしがあるよ。」ファゼーロがちょっと立ちどまって右手の草の中を指さしました。そこの草穂<くさぼ>のかげに小さな小さなつめくさの花が青白くさびしさうにぽっと咲いてゐました。

俄かに風が向ふからどうっと吹いて来て、いちめんの暗い草穂は波だち、私のきもののすきまからはその冷たい風がからだ一杯に浸みこみました。

「ふう。秋になったねえ。」わたくしは大きく息をしました。ファゼーロがいつか上着は脱いでわきに持ちながら

「途中のあかりはみんな消えたけれども……」おしまひ何と云ったか風がざあっとやって来て声をもって行ってしまひました。

「まっすぐだよ、まっすぐだよ。わたくしはあれからもう何べんも来てわかってゐるから。」わたくしはファゼーロの近くへ行って風の中で聞えるやうに云ひました。ファゼーロはかすかにうなづいて、また走りだしました。夕暗<ゆふやみ>のなかにその白いシャツばかりぼんやりゆれながら走りました。

間もなくわたくしははるかな野原のはてに青白い五つばかりのあかりとその上に青く傘<かさ>のやうになってぼんやりひかってゐるこの前のはんのきを見ました。だんだん近づいて行くとその葉が風にもまれて次から次と湧いてゐるよう、枝と枝とがぶっつかり合ってじぶんから青白い光を出してゐるやうなのもわかるやうになり、またその下に五人ばかりの黒い影が魚をとったりするときつかふアセチレン燈をもって立ってゐるのも見ました。今日は広場にはテーブルも椅子<いす>も箱もありませんでした。ただ一つのから箱があるきりでした。そのなかから見覚えのある大きな帽子円い肩、ミーロがこっちへ出て来ました。

「たうとう来たな。今晩は、いゝお晩でございます。」

ミーロはわたくしに挨拶しました。みんなも待ってゐたらしく口々に云ひました。わたくしどもはそのまゝ広場を通りこしてどんどん急ぎました。

のはらはだんだん草があらくなって、あちこちには黒い藪<やぶ>も風に鳴りたびたび柏<かしは>の木か樺<かば>の木かがまっ黒にそらに立ってざわざわざわざわゆれてゐるのでした。そしていつか私どもは細いみちを一列にならんであるいてゐたのです。

「もうぢきだよ。」ファゼーロが一番前で高く叫びました。

みちの両側はいつかすっかり林になってゐたのです。そして三十分ばかりだまって歩くとなにかぷうんと木屑<きくづ>のやうなものの匂<にほひ>がしてすぐ眼の前に灰いろの細長い屋根が見えました。

「誰か来てゐるな。」ファゼーロが叫びました。その大きな黒い建物の窓にちらちらあかりが射してゐるのです。

「おゝい。キューストさんが来たぞ。」ミーロが高く叫びました。

「おゝい。」中からも誰かが返事をしました。

私どもはその建物の中へ入って行きました。

そこに巨<おほ>きな鉄の罐<かま>が、スフィンクスのやうにこっちに向いて置いてあって、土間には沢山の大きな素焼の壺<つぼ>が列<なら>んでゐました。

「いや今晩は。」ひとりのはだしの年老<と>った人が土間で私に挨拶しました。

「これが乾燥罐だよ。」ファゼーロが云ひました。

「こゝで何人稼<かせ>いでゐたって。」私はたづねました。

「さうねえ、盛んにまうかったときは三十人から居たろう。」ミーロが答えました。

「どうしてだめになったんだ。」

みんなが顔を見合せました。さっきの年老った人が云ひました。

「薬のねだんが下ったためです。」

「さうですかねえ。そんなに間に合わないのかなあ。」

「ところが、ねえおい。ファゼーロ、おれはこの釜でやっぱり醋酸<さくさん>をつくった方がいゝと思ふ。あのときは会社だなんて、あんまりみんなでやったから損になったんだけれどもおれたちだけでやるんなら、手間にはきっとなるからな。十瓶<びん>だって二十瓶だって引き受けると町の薬屋でも云ってくるからな。」

「さうだ。」ファゼーロが云ひました。

「こゝの下へたいた煙をとなりの酒をつくったむろに通して、あすこでハムをつくるといゝな。」

「それはサートもさう云ってるよ。とにかくこの罐<かま>へ入れてやれば、木炭はそっくりとれるしさ、ハムもすぐには売れなくたって仲間へだけは頒<わけ>れるからな。」

「さあよしやらう。キューストはたびたび来て見てくれるだらう。」

「あゝぼくは畜産の方にも林産醸造の方にも友だちがあるからみんなさそって来てやるよ。ポラーノの広場のはなしをしてね。」

「さうだ、ぼくらはみんなで一生けん命ポラーノの広場をさがしたんだ。けれどもやっとのことでそれをさがすとそれは選挙につかふ酒盛りだった。けれどもむかしのほんたうのポラーノの広場はまだどこかにあるやうな気がしてぼくは仕方ない。」

「だからぼくらはぼくらの手でこれからそれを拵<こさ>へようでないか。」

「さうだ、あんな卑怯<ひけふ>な、みっともないわざとじぶんをごまかすやうなそんなポラーノの広場でなく、そこへ夜行って歌へば、またそこで風を吸へばもう元気がついてあしたの仕事中からだいっぱい勢がよくて面白いやうなさういふポラーノの広場をぼくらはみんなでこさへよう。」

「ぼくはきっとできるとおもう。なぜならぼくらがそれをいまかんがへてゐるのだから。」

「さあよしやるぞ。ぼくはもう皮を十一枚あすこへ漬けて置いたし、一かま分の木はもうそこにできてゐる。こんやは新らしいポラーノの広場の開場式だ。」

「それでは酒<さあけ>を呑<のう>まずに水<みづう>を呑むぅとやるか。」その年よりが云ひました。

みんなはどっとわらひました。

「よしやらう。表へ出て。おいミーロ、おれが水を汲んでくるから、きみは戸棚<とだな>からコップをだせ。」

ファゼーロはバケツをさげて外へ出て行きました。

みんなはアセチレン燈をもって工場の外の芝生に出ました。

みんなは草に円くなって座りました。ミーロはみんなにコップをわたしました。ファゼーロがバケツを重さうにさげて来て、

「さあコップを洗ふんだぜ。」と云ひながらみんなのコップにひしゃくで水をつぎました。私はその水のつめたいのにふるひあがるやうに思ひました。みんなはこちこち指でコップをあらひました。

「さあまた洗ふんだぜ。」ファゼーロが云ってまた水をつぎました。みんなは前の水を草にすててまた水でそゝぎました。

「もう一ぺん洗ふんだぜ。前の酒の匂<にほひ>がついてるからな。」ファゼーロがまた水をつぎました。

「ファゼーロ、今夜一ばんコップを洗ってゐるのかい。」

醋酸<さくさん>をつくってゐたさっきの年老<と>った人が、云ひました。みんなはまたどっと笑ひました。

「こんどは呑<の>むんだ。冷たいぞ。」ファゼーロはまたみんなにつぎました。コップはつめたく白くひかり風に烈<はげ>しく波だちました。

「さあ呑むぞ。一二三、」みんなはぐっと呑みました。私も呑んでがたっとふるへました。

「では僕がうたふぞ。ポラーノの広場のうた。

「では僕がうたふぞ。ポラーノの広場のうた。
つめくさのはなの 終る夜は
ポランの広場の 秋まつり
ポランの広場の 秋のまつり
水をのまずに酒を呑む
そんなやつらが威張ってゐると
ポランの広場の 夜が明けぬ
ポランの広場も 朝にならぬ。」

みんなはパチパチ手を叩<たた>いてわらひました。その声もすぐ風がどうっと来てむかしのポラーノの広場の方へ持って行ってしまひました。

「おれもうたふぞ。」ミーロがたちました。

「つめくさの花のしぼむ夜は
ポランの広場の秋まつり
ポランの広場の秋のまつり
酒くせの悪い山猫<やまねこ>は
黄いろのシャツで遠くへ遁<に>げて
ポランの広場は 朝になる、
ポランの広場は 夜が明ける。」

「さあぼくも歌ふぞ。〔以下原稿数行分空白〕

「さあ叫ぼう。あたらしいポラーノの広場のために。ばんざーい。」わたくしは帽子を高くふって叫びました。

「ばんざぁい。」

そして私たちはまっ黒な林を通りぬけてさっきの柏<かしは>の疎林を通り、古いポラーノの広場につきました。 そこにはいつものはんのきが風にもまれるたびに青くひかってゐました。わたくしどもの影はアセチレンの灯<ひ>に黒く長くみだれる草の波のなかに落ちてまるでわたくしどもは一人づつ巨<おほ>きな川を行く汽船のやうな気がしました。

いつものところへ来てわたくしどもは別れました。そこにほんの小さなつめくさのあかりが一つまたともってゐました。わたくしはそれを摘んでえりにはさみました。

「それではさよなら。また行きますよ。」ファゼーロは云ひながらみんなといっしょに帽子をふりました。みんなも何か叫んだやうでしたがそれはもう風にもって行かれてきこえませんでした。そしてわたくしもあるきみんなも向ふへ行ってその青い風のなかのアセチレンの火と黒い影がだんだん小さくなったのです。

それからちゃうど七年たったのです。ファゼーロたちの組合ははじめはなかなかうまく行かなかったのでしたが、それでもどうにか面白く続けることができたのでした。私はそれから何べんも遊びに行ったり相談のあるたびに友だちにきいたりしてそれから三年の後にはたうとうファゼーロたちは立派な一つの産業組合をつくり、ハムと皮類と醋酸<さくさん>とオートミールはモリーオの市やセンダードの市はもちろん広くどこへも出るやうになりました。そして私はその三年目仕事の都合でたうとうモリーオの市を去るやうになり、わたくしはそれから大学の副手にもなりましたし農事試験場の技手もしました。そして昨日この友だちのないにぎやかながら荒<す>さんだトキーオの市のはげしい輪転器の音のとなりの室でわたくしの受持ちになる五十行の欄になにかものめづらしい博物の出来事をうづめながら一通の郵便を受けとりました。

それは一つの厚い紙へ刷ってみんなで手に持って歌へるやうにした楽譜でした。それには歌がついてゐました。

ポラーノの広場のうた

つめくさ灯<ひ>ともす 夜のひろば
むかしのラルゴを うたひかはし
雲をもどよもし 夜風にわすれて
とりいれまぢかに 年ようれぬ

まさしきねがひに いさかふとも
銀河のかなたに ともにわらひ
なべてのなやみを たきゞともしつゝ、
はえある世界を ともにつくらん

わたくしはその譜はたしかにファゼーロがつくったのだとおもひました。

なぜならそこにはいつもファゼーロが野原で口笛を吹いてゐたその調子がいっぱいにはひってゐたからです。けれどもその歌をつくったのはミーロかロザーロかそれとも誰<たれ>かわたくしには見わけがつきませんでした。

新修 宮沢賢治全集第十二巻 童話Ⅴ
編集(宮沢清六 入沢康夫 天沢退二郎)
ポラーノの広場
銀河鉄道の夜
風の又三郎
ひのきとひなげし
セロ弾きのゴーシュ
他異稿二編
後記(天沢退二郎)
筑摩書房 1980(昭和55)年1月15日初版発行
宮沢賢治画

メモ : 「ポラーノの広場」について

・新潮文庫 ポラーノの広場 収録作品について 天沢退二郎
「ポラーノの広場」― 賢治は何種類もの自作題名列挙メモを残していて、自作の分類や、自選童話集の構想を按<あん>じていたことがわかるが、そのうちの一つ、「歌稿」表紙に記されたメモは
少年小説 : ポラーノの広場 / 風野又三郎 / 銀河ステーション(銀河鉄道の夜) / グスコーブドリの伝記
となっていて、「少年小説」がいかなる概念規定であったかは別にしても、「ポラーノの広場」を作者自身、自分の代表作の一つとみなしていたことがうかがわれる。
それにしては「ポラーノの広場」が「風の又三郎」「銀河鉄道の夜」のようには広く読者に親しまれず、「グスコーブドリの伝記」のようには、作者の〝あり得べき自伝〟として重要視されずにきたように思われるのは何故であろうか?
「一、逃げた山羊」ではじまる物語に先立って、ちょうどザラ紙一枚分のプロローグが置かれている。そこで話者レオーノキューストは、かって地方都市で博物局の下級職員として働いていた当時のことを、首都の《暗い巨きな石の建物》の中で、かぎりない懐かしさ、郷愁をこめて回想する。このトーンは、ちょうど、未刊詩集「春と修羅 第二集」序詩の
この四ヶ年はわたしにとって / じつに愉快な明るいものでありました
と回想しているくだりを想起させる。
この「ポラーノの広場」の物語、《あの年のイーハトーヴォの五月から十月まで》の出来事にとって、レオーノキューストは主人公というよりむしろ観察者、同伴者、記録者であって、産業組合設立にいたる冒険や行動の当事者は、羊飼いミーロや少年ファゼーロとその仲間の若者たちであった。彼らこそは、「春と修羅 第二集」の成立過程で宮沢賢治が親しく接していた農学校生徒たちの転位であり、「グスコーブドリの伝記」とはまた異なった意味で、「ポラーノの広場」もまた、賢治の、〝あり得べかりし自伝〟の重要な一部としての性格をそなえていると言える。
「ポラーノの広場」の初期形にあたる「ポランの広場」(推定題名)の筆写稿が、冒頭と結尾部を欠くかたちで残っているが、そこでは話者と少年たちのもっとメルヘン的な体験が語られ、後期形のこのノスタルジックな回想調はみられない。本編の草稿が第一葉のみ極端な下書き稿で、多く判別不能のゴムによる抹消部分と、錯綜する手直しのあとにみちているのは、この第一葉すなわちプロローグ部分のみが先駆形態をもたず、この段階でのぶっつけ書きだったためと考えられる。そしてこのとき、「ポラーノの広場」の回想形式、すなわち《あり得べかりし自伝》という設定がはじめて定着したのである。

・初期形態先駆作品「ポランの広場」とその一部劇化「ポランの広場第二幕」、文語詩「ポランの広場

・「ポラーノの広場」は、理想の共同体とはどうあるべきか、という問いを私たちに投げかけている。この広場は「ポランの広場」とも言い換えられる。

・「ポラーノの広場」で、賢治は理想的な世界、すべての人間が幸せであるような共同社会・広場の実現を表現した。

・「つめくさのあかり」に導かれる美しい花(ポレーノ)の広場、北極星(polester/polaris)のように宇宙の中心になる(ポーラーの)広場。花は地上の星、星は天上の花、両者の価値は同等である。

・ポラーノの語源・由来の諸説
参考 : 山下聖美著 宮沢賢治『ポラーノの広場』論 D文学研究会/星雲社 2003(平成15)年
  1. 英語のポリン(pollen 花粉)、ポーラー(polar 極地)
  2. ポーランド語のポラーノ(polano たきぎ)
  3. ロシア語のポリャーノ(森の中の草地、空き地)
  4. エスペラント語のポレーノ(poleno 花粉)、ポラーラ(polara 極)
  5. ラテン系言語で、pol-ではじまる語に、pol(フランス語 北極)、 polare(イタリア語 極)、 polar(スペイン語 極地の、北極の)
  6. 日本語のホラアナ、洞穴

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